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トンコする僧をつれ戻す
驚いたのはその亜希子で、まじまじと織江の顔を見つめる。いまだかつて自分から発言などついぞしたことがない織江と絹子だった。それなのにこのようなシチュエーションで、しかもただ一人で…が信じられない驚きだったのである。この二人が亜希子にとってはふだんから特に愛しく、これを慈しまねばならないと心していたのだが、いま自閉症のごとき我子が始めて口を利いてくれたような喜びと、それに応えねばならないという勇み心に駆られ、またしても亜希子は僧を追って駆け出して行った。「ちょ、ちょっとちょっと、お坊様。ここで行かれては困ります。ベトナムのお話、まとめて行ってください。ね?」と云っては微笑みかけ、その袂を捉えて離さない。しかしすっかりナニが縮み上がっている様子の僧は容易には応じかねるようだ。向こうの鳥羽を鬼ででもあるかのようにみつめることしきりである。だいじょうぶだからとばかり袂をつかむ亜希子に引かれてはヨタヨタと歩き出すのだがその心もとないこと甚だしい。はたして帰っても一言でも口が利けるかどうかだった。しかし改めて生き観音のような亜希子の美しい顔を間近に見、近づくにつれてはっきりと見分けられる思い込んだような織江の童顔、さらにはふだんの自分の生活には絶対にあり得ない若い娘たちの囲みを見遣ると、それらがプリズムのようになって七色に光り、僧の眼にもどって来てはこれを喜ばせ、再びの勇気をさずけるのだった。舌打ちをするかのような空の僧の雰囲気が亜希子の間近で感じられる。グイッとばかりそれが再び僧の身に入り込んだようだ。僧と亜希子の戻る歩調が変わる…。
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