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綺麗な場所と、ニナは言った。それは、地元民の贔屓目などではないようだ。
丘の上り坂を正面に臨むと、そちらから花の香りが漂ってくる。強い風が背後から吹き上がってきた。花に埋もれた花弁がひらり、ふらりと舞い上がる。色とりどりの花びらが視界を占める、まるで夢のような光景だった。
花は、丘の頂点により多くの花を咲かせていた。あとはところどころに小さな花畑がいくつか。ありとあらゆる色。ありとあらゆる香りが漂っているが、華美な印象はまるでない。それどころか、ただここに立ち、ただそれらを眺めているだけで、スイを支配する不安や焦燥感が、わずかに和らいでいくようだ。
(自分でも、咲かせられるのに)
だから花など、今のスイには特別な存在ではないはずなのに。……ここに咲く花は、スイの咲かせる花より、ずっと優しいものらしい。
「……綺麗だな」
「はい! ……でも、なんだかここのお花も、ちょっと様子が変な感じがします」
「そうなのか?」
「はい」
「……ほんとだ」
丘の片隅や花畑のごく一部、花がぐったりとうつむいてしまっているものや、葉や花が枯れているもの、枯れ始めているものなどがある。見るからに調子が悪そうだ。
「それに本当はここ、一面花畑なんですよ」
「一面? この丘全部ってことか?」
「はい。ちょっと開いちゃってるところはありますけど、ほとんど全部」
「……本当だ」
言われて足元を見てみれば、スイのすぐ近くにある少しくすんだ色合いの草のすべては、本来、大ぶりな花を咲かせる種類の植物ばかりだった。この花畑に落ちている大量の花びらはもともと、花自身にとっては思わぬところで花を落とし、枯れてしまったものたちらしい。……異変は農作物に起こっているという話だったが、それだけの問題ではないようだ。
黒い手袋に覆われた手袋を、自分の指先で少し撫でる。
(……僕なら)
「あ! でも!」
思考は声によって遮られる。ニナはバスケットを草原の上に置くと、蓋を開き、何やら中を探り出す。スズが声をかけようと口を開いた瞬間、彼女は何かを引っ張り出した。
それは、四角く折り畳まれたチェック柄の布のようだ。かなり分厚く、かなり大きそうだ。
「ピクニックはできますし、おいしいものは食べられます! 丘のてっぺんに行きましょう。そんなに高くはないんですけど、畑と牧場があります! ばっちりな眺めです!」
ニナは布を脇に抱え、バスケットの持ち手に腕を通す。こちらを振り返らず、なだらかな坂を駆け上っていってしまった。
「元気だな」
「……うん、本当に」
指を撫でていた手を下ろし、スズと顔を合わせ、苦く笑う。そうしていると前方から情けない悲鳴が聞こえてきた。丘のてっぺんに向かって突進するように駆け上がっていくから、帽子が彼女の勢いに負けて、吹き飛ばされてしまったらしい。坂の上の方からふわりふわふわ、風に遊ばれて落ちてくるそれを、スズと一緒に追いかける。風はスイとスズでも遊んでいるようで、帽子に追いつきそうになるとすぐさま離れていく。坂の上からニナが戻ってきた頃、ようやくスイが捕まえた。運よく、風がスイの方に吹いてくれたのだ。もう逃さないよう、両手でしっかり掴んで持つ。追いついてきたニナに手渡した。
「すみません、ありがとうございます」
ニナはすぐ、帽子を被る。
「それ、何か紐とかないのか?」
「ないです。んー、帰ったら自分でつけようかな」
ニナは布を持った方の手で帽子を押さえる。もう片方の手にはバスケット。なんだかとても、過ごしづらそうだ。
「……どっちか、持つ?」
見るに見かねて、スイはそう申し出た。
「えっ、でも……」
「ああ……、それもそうだな。じゃあ、俺はバスケットを持つよ。カラスはそっちの布の方を頼む」
「うん」
二人して手を差し出す。だが、ニナはまごまごとして、なかなか荷物を渡してくれない。
「どうしたんだよ」
「その、お二人の申し出はとてもありがたいのですが、お客様に荷物持ちされるのはちょっと申し訳なさすぎる気がして……」
「なんだ、そんなことかよ」
「そ、そんなことじゃないですよ」
「そんなことだよ。俺はそういうの、元来どうでもいいたちだ。こいつもそう」
「でも……」
ニナにとってそれは、余程の抵抗感があることらしい。手はちっともこっちに向かって伸びてこない。このままでは埒が明かなそうだ。
「持つよ」
また風に吹き飛ばされて、今度は農場の奥の方とか、ところどころにぽつりぽつりと佇む木の枝とか、そういった取りづらいところに引っかかってしまったら大変だ。ニナの気持ちが固まるよりも先に、スイは手を伸ばし、ニナの手の中からバスケットを奪い取る。バスケットは見た目に反し、かなりずっしりとしていた。
「あっ、す、すみません」
ニナは頑なに抵抗する、なんてことはしなかった。感謝の代わりに小さく謝って、頭を下げる。そんな彼女の手から、今度はスズが、布を奪い取った。こうしてニナは、両手に何も持たなくなる。役目全部を失ったニナの手は、自分の頭の方へと向かう。片手でしっかり帽子を押さえた。これでもう、帽子はどこにも行かないだろう。
丘の頂点、この丘の中でもっとも広い花畑の傍らでニナが立ち止まる。
「ほら、あそこです」
彼女が指差した先、気持ちのいい青空の下に、広大な農場と牧場が広がる。そのさらに奥には森と街道を臨むことができた。農場には多種多様な作物が実っているのが遠目からでも見て取れる。人々は黙々と、手入れや収穫作業に勤しんでいるようだ。牧場には牛や羊がのびのびと散歩している。のんびりとした彼らの足取りは、見ているだけで心が和む。奥側の街道には、ちょうど荷馬車が走っている最中だ。馬たちが粛々と、箱に収まった大荷物を運んでいる。
……そこは、ララカの人々の営みを一望できる場所だった。
「綺麗だね」
スイは、それをそう感じた。
人は、好きではない。だが、離れて見るその景色は、どうしようもなくスイの心を揺らした。
「はい! ララカの領は、とってもとーっても、綺麗なんですよ」
ニナは誇る。彼女が愛するララカの領とはきっと、今、スイたちが見ているこの景色そのものなのだろう。
「ああ、本当に。……ここで食事するのか?」
「はい! そちらのピクニックシート、広げていただけますか?」
「おう」
スズは折り畳まれた布を広げていく。チェック柄のそれは、端っこの方がほつれていて、そこそこに使い込んであるような様相があった。
ピクニックシートとして使っている布は、すでに端の辺りが風によって弄ばれてしまっている。吹き飛ばされそうにふわふわと危なっかしい動きを繰り返すそれを、スズは慌てて手を伸ばして止める。だが、そうしていると、今度は反対側の隅がふわふわ揺れ始める。スズが押さえているからピクニックシートが吹き飛ばされてしまうことはないだろうが、あちこちがふわふわと風に揺さぶられているその姿は、落ち着いてのんびり食事できる場所には見えない。
「なあ、これって重石とかないのか?」
「私たちが重石です!」
「ああ……、そういうことか」
スズはピクニックシートの上に座って、靴を手早く脱ぐ。そうしてあぐらをかいて座った。ニナも靴を脱ぎ、シートの上に飛び乗った。
「ほら、カラスさんも! バスケット、引き取りますね。運んでくださってありがとうございました」
手を差し出してきたニナに、バスケットを手渡した。ニナは風向きを見て、風が吹いてくる方角にバスケットを置き、重石代わりにする。バスケットの下のシートはぴったりと草原にくっついて、浮き上がってはこなくなった。
シートの上に来いと、ニナは言う。だが、スイはそれにすんなり従うのは、抵抗感があった。
スイの全身は、花を咲かせる力がある。それは呪いゆえ、自らで制御することは難しい。……ピクニックシートの上に上がり込んでは、きっとすぐに、シートの上を花と蔦だらけにしてしまうだろう。足の力は手よりは弱いが、強い方だ。いつもは靴底にあるカラスの力で相殺して、変に目立たぬようにしているだけなのだ。
「どうなさったんですか?」
「ちょっと」
下手なごまかしを口にしながら、スイは自らの鞄を探る。常に携帯するようにしているハンカチを取り出し、それをシートの上に置く。スイはその上に立ち、そうしてそのままその場に腰を下ろす。ニナはその様を不思議そうに眺めていたが、だからといって、それについて詮索することはしなかった。
「じゃあ、ご飯にしましょう!」
笑顔で言って、バスケットから小さくて色とりどりの箱をいくつか取り出す。最後に細長い瓶を取り出し、それと一緒に取り出した空っぽのカップに注ぎ始める。柔らかな草色の液体がカップを満たす。見た目は素朴だが、果物の香りに似た、甘みがある香りが漂った。昨日、シズルに出されたフルーツティーの香りに似ているが、あれよりはずっと淡白かつ控えめな甘みの香りに感じる。
「お二人とも、こちらの箱、開けていってくださいますか?」
「ああ、わかったよ」
「うん」
スイとスズは言われるがまま、箱の蓋を次から次へと開けていく。箱はおそらく木製。それゆえ、しっかりとした感触だ。箱を開けるたび、異なる香りが溢れてくる。彩りにもこだわっているようで、どの箱の中身も、華やかな見た目のものばかりだった。
「おっ、こっちはパイか」
「はい! それと、その下の箱もパイです。下の花の模様が描いてあるやつの方が甘いパイですから、食後のデザートにいただきましょう」
「了解。じゃあ、こっちはよけておくな」
「あ、預かります。だいたい蓋は開きましたね」
「だな」
「じゃあ、風が落ち着いているうちにささっと食べましょう」
「それがいいな」
「はい! じゃあ、こちらお茶です」
「おお、ありがとな」
ニナが渡してくれたカップを最初にスズが受け取り、次にスイが受け取った。するとニナの手の中は、何もなくなってしまう。
「ニナはいいのか?」
「はい、私は食後で大丈夫です。それじゃあ、いただきましょう!」
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