四章 花の国のカラス姫

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 朝日が昇るのを見た。スイは一晩、眠らずにいた。ベッドに座って、サイドテーブルに紙を置き、無意味な落書きをして過ごすのみの無意味な時間だった。だが、眠気はない。いつものスイに戻ったようだ。  朝食はシズルが用意してくれたものを、食堂で食べた。食堂に足を踏み入れたのは初めてだ。今までは寝ているか、あるいは部屋で食事していた。食事は必要ないのだが、運んできてくれたスズに、「食事しなくてもいいのは知ってるが、せっかく作ってくれたんだから食べてみろ」と言われてしまったのだ。味は、美味だった。  屋敷の食堂は、案外手狭だ。テーブルも椅子の数も、どれも一般家庭に比べればやや広く、そして多い方だが、極端な広さ、多さでは決してない。食堂の雰囲気も、とても品よく落ち着いている。シズルと彼女の夫によく似合う場所だと感じた。  食堂に使用人の姿はなく、代わりにシズルが一人でいた。テーブルの上には具だくさんのやや赤い色したシチューとパンが並んでいる。 「おはようございます」  シズルが微笑んで挨拶をくれる。 「おはようございます」 「おはよう」  スズが綺麗に頭を下げる。スイが何もせず突っ立っているのはちょっと違和感を覚えて、真似をしてみた。スズが妙な顔をしてこちらを一瞥したが、その場で何も言わなかった。 「どうぞ」  シズルに椅子を勧められ、スズは座ることを宣言してから腰かける。それはなんとなく真似せず、スズの隣の椅子に腰を下ろした。 「今日はニナと一緒に出かけてくれるのでしょう?」  食事が始まって早々、シズルがニナのことを口にした。シズルとニナが話しているところをまだ一度も見たことがないから不思議な感覚がするが、当然といえば当然のこと。彼女らは顔見知り同士なのだ。 「はい」 「ありがとうございます」 「いえ、私は何もしていません。むしろこちらが感謝したいくらいです」  スズはすっかり、シズルや彼女の夫の前でする顔になってしまっている。ちょっと口を挟みにくい雰囲気を感じたが、どうしても気になるので、手の中でパンを弄びながら、おずおずと口を開いた。 「……どうして、シズルがお礼を言うの?」  とても不思議だ。スイにその理屈はよくわからないが、彼女とニナの関係は主人と使用人というもののはず。感謝なんてものが発生する繋がりには見えなかった。 「……彼女は、少し特殊な事情がある子なのです」 「髪の色、ですか?」 「……ええ、そうです。そのせいで、幼いときからずっと虐げられてきました。わたくしの前で表に出すことはありませんが、使用人たちからの情報では、街の人々からも気味悪がられているようで、年の近い子供たちにも避けられている状態です」  カラスの顔がよぎった。彼女も、ニナも、どうして髪の色や目の色だけでそんな目に遭っているのだろう。この国で忌み嫌われる色なのはわかった。だが、その色を持って生まれただけだ。本人の意思など何も関係ないその点を、どうして論われなくてはいけないのか。 (ひどい)  手の中のパンが、潰れて平べったくなった。 「それが、とてもかわいそうなのです」  ――かわいそう。スイは覚えたことがない感情だ。しかし、うっすらと意味は知っている。何かを哀れむ心は、人と人との繋がりの中で生じる、ある種の絆。それを向けられるニナは、きっと幸せな子なのだろう。 「……あの子、友達が一番欲しい年頃のはずなのに、一緒に遊べる相手すらいません。だから、あなた方と一緒に遊びに行くと聞いて、とても嬉しかった。わたくしやロビィ様は親の代わりはできますが、友達の代わりはできません。この屋敷の使用人たちも同様です。彼らは親や姉や兄の代わりはできても、友達の代わりはどうしても難しい。年の差の影響というのは、それだけ大きなものなのです。……よろしかったら、この屋敷にいる間、あの子と仲良くしてあげてくださいね」 「ええ、わかりました。曽お婆様」  スズはシズルに恭しくそう返す。スイは平べったくなってしまったパンを一口放って、噛みしめた。ほんのりと甘いはずのそのパンが、今は、少しだけ苦みを持っているように感じた。 (……どうして、だろう)  誰かに思われ、その誰かに心配をされて、他の誰かに頼みごとをされて、その他の誰かは快く了承した。その流れはとても微笑ましいもののはずなのに、どうしてか、スイのぐしゃぐしゃな心は、それを寂しいと感じていた。 (僕が頷けないから?)  スイは、人というものを嫌ってしまっている。スズのようにわかったなんて返せない。その疎外感が、この思いを生んでしまっているのだろうか。 (それとも……)  自分には見えない何かが、自分の中にあるのだろうか。  今のスイには、まだ、見つけられそうになかった。  朝食後、玄関の方に向かうと、そこにはすでにニナの姿があった。いつものエプロン姿ではなく、楚々としたワンピースに身を包んでいるニナだったが、黒髪はきちんとまとめ、鍔広帽子を目深に被っている。一瞥しただけでは黒髪は決して見えないだろう。……おそらく、意図して髪を隠しているのだろう。  それでもニナは、笑っている。スイとスズを見つけると、小さく飛び跳ねて、手を振り、それからちょっと目を見開いてから頭を下げた。 「すみません、ついこの手が馴れ馴れしく!」  ニナは高い位置で振ってしまった手を、小指で突く。小指を使っているわけは、彼女の片手には四角いバスケットが握り込まれているせいで塞がってしまっているからだ。 「いや、別にいいですよ。……馴れ馴れしいついでに、丁寧語、やめてもいいですか?」  シズルからの頼みの影響だろうか。スズはニナと顔を合わせるなり、そう言い出した。 「えっ?」 「嫌ですか?」 「あっ、違うんです、違うんです! 全然、そういうつもりじゃなくて! 逆です! 全然、楽に話してくださって構いません」 「そっか、じゃあ、楽に話させてもらう」 「はい!」 「ついでにニナも、楽に話して構わないぞ。なあ?」  スズがスイをちらりと見るから、黙したまま、こくこくと数度頷く。そもそもスイには、丁寧語なんてものの存在意義がよくわからない。 「えー!? いやいや、お二人ともお客様ですし! それに私、話す人ってたいてい目上の人だから、こういう口調じゃないと落ち着かないんですよ。だからこのままでお願いします」 「そうか? なら、それでいいか。まあ、気が向いたら楽に話してくれ。名前の呼び方も、せいぜい何々さんくらいにしておいてくれ。ニナのことも、呼び捨てにさせてもらいたい」 「はい! わかりました! 呼び捨てでもちっとも構いませんよ! それにしてもスズ様、じゃない、スズさん、けっこう親しみやすい口調なんですね」 「ろくでもない育ち方してきたからな。……んじゃ、いつまでも玄関で話してるのも変だし、そろそろ行くか」 「はい! 本日はよろしくお願い致します!」  ニナは臍の辺りで体を折り曲げているくらいの深さで頭を下げた。ついさっき、そういう風に振る舞うのはいいと言われたばかりなのに。  スズは何か言いたげだったが、こちらを再び一瞥し、小さく微笑む。結局ニナには何も言わず、「それじゃあ、出かけるか」と号令をかけて先頭に立ち、玄関を出た。
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