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屋敷を一歩出ると、眩い青が目に映る。空の色だ。雲は少ない。街の外に出かけるにはぴったりだ。
(ちょっと、眩しいかも)
空はしょっちゅう視界に入っていたけれど、意識の内には入ってこなかった。ずっと見てはいたはずの色なのに、長い、とても長い時間、見ていなかったような気がした。
ニナが言うには、目的地の花畑は、スイたちが入ってきた街の入口とは正反対の方向にあるらしい。距離はそう離れていないとのことだ。
「カラス様のことも、カラスさんとお呼びしても大丈夫ですか?」
ニナがそう訊ねたのは、屋敷の門を出て二歩目のことだった。屋敷から門までの短い距離の間、ニナがずっとスイの方をちらちらと見ていたわけは、そういうことだったらしい。
「うん」
呼ばれ方は今現在のスイには悩ましいところなのだが、敬称へのこだわりはまったくない。了承すると、ニナはまた笑う。純朴な少女らしい、温かみのある微笑みを、この子はよく浮かべる。
「よかったです。あ!」
ニナは手にしていたバスケットを顔くらいの高さに持ち上げる。バスケットは、ニナの顔よりずっと大きい。
「言い忘れてました! これ、お昼ご飯です!」
「ニナが作ったのか?」
ニナの向こう側にいるスズが、バスケットを眺める。もちろんそうしたところで、中の様子などちっとも見えない。だがバスケットの大きさから察するに、量はなかなかのものだろう。
「はい! 私と、あとシャラさんにも手伝っていただきました! あ、そうそう、スズ様、じゃない、スズさんが好きだと仰っていたので、パイも焼いてきましたよ!」
「おっ、マジか」
「はい! 甘さ控えめ、ちょっとしたおかずになるきのこたっぷりパイと、デザートにちょうどいい、甘いカスタードクリームと果物たっぷりのパイですよ!」
「いいな、最高」
「スズさんはどちらかというと、甘いのと甘くないの、どちらのパイがお好きなんですか?」
「甘いのだな」
「へえ! 意外です」
「そうかあ?」
「はい、男の人って甘いもの、好きじゃないという印象が」
「ふうん。じゃあ、曽お爺様も好きじゃないのか?」
「えー、どうなんでしょう。あ、でも、奥様が作ったクッキー食べてるところ、見たことあります!」
「じゃあ、好きなんじゃねえかな。あの曽お婆様が、曽お爺様の好きじゃないものを選んで出すとは思えない」
「あっ、そうですね、そうっぽいです! カラス様、じゃなくて、カラスさんはどうなんです?」
「えっ」
二人の会話を他人事のように聞き流していたスイは、急に会話の中に引き込まれた。二人の世界が構築されきっているから、自分はただ足を動かしていればいいと思っていたせいで、咄嗟に答えることができなかった。
「甘いものと甘くないもの、パイならどちらが好みですか?」
だがニナは、気を悪くした素振りはちっとも見せない。にこやかにもう一度、同じ質問を丁寧になぞってくれる。
「……どっち、だろう」
ちょっと考えて、すぐ気づく。
「パイ、食べたことないかもしれない」
リコの缶詰にも、パイ料理はなかった。これまでの旅路でもそうだ。パイそのものの味がよくわかっていないので、返答することなどできるはずがなかった。
せっかく訊き直してくれたのに、スイが返せるものといえば、この程度のものしかない。
「そうなんですか。じゃあ、今日、試しましょうね!」
やっぱりニナは、スイのつまらない答えに気を悪くした様子はない。それどころか、どこか楽しげに自分が持つバスケットを示す。
「おいしいですよー、パイ! なにせシャラさんと一緒に作ったものですから、ほっぺ落ちまくりな逸品なんです! 楽しみにしててくださいね!」
「……うん、楽しみにしてる」
「はい! 私もすっごく楽しみなんです! なんだかお腹減ってきちゃいました」
「朝食、早かったのか?」
「ううん、たぶん皆さんとそんなに変わらない時間帯に取りましたよ。成長期なんですかね、私、すごくよく食べちゃうんです。食べすぎちゃって最近はほっぺが膨れがちと評判です」
「そんなにかー?」
「そんなにですよー。カラスさんはすらーっとしてていいですね!」
「……そう?」
スイが痩身なのは、おそらく、貧しかった頃の名残だろう。あのときのまま体が止まってしまっているから、みずぼらしいくらいに瘦せっぽちの体のままなのだ。そんなもの、羨ましがられるようなものではない。
「はい! 私、すらーっとした体型って憧れなんです! それで身長高い女の人ってかっこよくないですか?」
「まあなあ、気持ちはわかるけど」
スズにはわかることらしい。痩身の方が好まれるのは、思いがけず普遍的な嗜好なのだろうか。
「……僕は、そのままのニナがいいと思う」
「え……っ」
浮かんだ素直な感想をそのまま呟く。ニナはちょっと声を上ずらせ、帽子の鍔を摘まむ。そのままちょっと下向きに引くものだから、ただでさえ目深に被った帽子により、目元が完璧に隠れてしまった。だが、緩んだ口元は、変わらずに覗いている。
「ありがとう、ございます」
農場の脇を通り抜けていく。前方にわずかに隆起した大地が見える。それこそが、花畑がある丘なのだとニナは言った。
広々とした農場に目をやる。広大な大地を占めるように茂る麦が、風にそよぐ。
「綺麗ですよね、麦畑。何度見ても見惚れちゃいます宇」
「うん。……でも、なんか……」
「どうした?」
「ううん……たぶん、気のせいだと思うんだけど、少し……麦が元気ないような気がして」
「そうかあ?」
「うん、なんとなく」
昔、図鑑で見た麦は、もっと綺麗だし、もっと密集して生い茂っていたように思うのだ。
「もしかしたら、最近、畑の調子が悪いっていう話が関係あるのかもしれません」
「そうなのか?」
「はい、よく聞きますよ。滅多にない病気が蔓延してるとか、そもそも育ちが悪いとか。こんなことたぶん花の国始まって以来だって、みんな言ってます。王都の研究者さんとか、学者さんとか、農場の人とか、みんなで協力し合って頑張ってるんですけど、なかなかうまくいかないって聞いてます」
「ほー、確かにこの国じゃそういう話、聞かないよな。ちょっと本を開きゃそんな話、聞き飽きるくらい聞くのに」
「本の中ですか?」
「外国の記録とか」
「外国じゃ、畑に何か起こるのが普通なんですか?」
「らしいぞ。俺もよく知らんが」
「へー、信じられないですね」
「な」
スズとニナは畑の異常に対し、非常に呑気な反応を見せる。この国の現在に、飢饉や貧困は実感を伴わない噂話のようなものなのだろうか。
「……この麦畑は、このままで大丈夫なの?」
「え? んー、このままじゃない方がいいでしょうけど……」
「ここにあるのって基本的に外国への出荷用だろ?」
「はい、そう聞いてます」
「ならどっちかっていうと、このままだと貿易関係の金の問題の方が深刻だな」
「あー、そうみたいですね。旦那様も奥様も、最近書類を見ながらよくここに」
ニナは自分の額に手をやった。そうしたところで、帽子が邪魔して何をしているのかよく見えない。
「皺を寄せてますよ」
「はー。そういやさ、今年、なんか多いみたいだな」
「え? ララカの領地だけじゃないんですか?」
「ああ、らしいぞ。隣の領のジェムの街の辺りの宿場でも、そういう話を小耳に挟んだ。そのせいで宿や食堂は費用が増えて大変なんだとさ」
「けっこう範囲広いんですね。どうしちゃったんでしょ」
「さあなあ……」
――なぜだろう。
この国が始まって以来だという不作の話を聞いていると、どうしてか、心が大きく揺れ動く。
(なんだろう、なんだろう、何か……何か、知っているような気がする)
早鐘を打つ胸を押さえる。頭の奥、奥の裏、自分でも見えないところにあるそれが、強く疼く。
彼女の顔が、浮かんで消えた。
「カラス?」
「カラスさん? どうしたんですか」
知らぬ間に、スイは足を止めていたらしい。最初にスズが気づき、それを聞きつけたニナが、小走りしてスイのもとにやってくる。
「あ……ううん。ちょっと、考え事しちゃった」
何を言うべきなのか。何を伝えるべきなのか。自分の中の思いがうまく掴めない。ここのところのスイは、ずっとそれに苛まれている。
「考え事、今はやめとけ。今日は休む日だ。そう決めただろ?」
「……うん、そうだった」
何かがずっと、胸に引っかかっている。だが、それを脱するためにも休めとスズは言った。きっと考え事に集中しても、欲しいものは手に入らないだろうから、今は、それに従ってみると決めたばかりではないか。
「具合が悪いわけではないんですか?」
ニナは、初めて会ったときと同じようなことを心配している。この痩身が、体が弱いという印象を植え付けてしまっているのだろうか。
「うん、大丈夫。行こう。あとちょっと、だね」
初めはちっぽけなものに感じていた丘は、今はずいぶんと大きくなってきている。ここまで近づければ、そこが話に聞いた通りの花々が咲き乱れる美しい地であることは見て取れた。
「はい、ここまで来れば、目と鼻の先です。そこでゆっくり過ごしましょう」
「うん」
頭の奥で渦巻くそれから目を逸らすべく、遠くだけを見つめ続ける。
(……大丈夫。今日を過ぎれば、きっと)
きっとそれは、形を持ってくれる。根拠はない。それが叶うよう、ただ唱えた。
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