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ニナが自分の分のお茶を用意しなかったわけは、すぐにわかった。
彼女は働き者だ。誰かがちょっと何かを零したら、すぐにそれを拭き取るし、何か取ろうとしている気配を察知すると、すぐにそっちへ手を伸ばし、代わりに取ってくれる。そうやって誰かの世話に勤しんでばかりいるから、せっかくの食事を彼女はまだ数口しか食べられていない。
「なあ、ニナ」
「はい」
「俺ら、そんな構われなくて大丈夫だぞ。欲しいものは勝手に取るし、何か零したら自分らで片付ける。そのくらいはできるさ」
スズに同意する意味を込め、スイは何度も細かく頷く。あれこれ世話を焼かれるより、一緒に何かを食べてもらう方が、ずっと心地がいい。
「え、で、でも……」
「いいから。な。正直、そうされてると落ち着かないしさ。もっと楽にしておいてくれて本当に構わないんだ」
「……はい、ありがとうございます」
言葉は納得している風だが、表情は、なぜだかひどく寂しげだ。ニナの気持ち、スイにはどうしても、わからない。
スイはバスケットに手を伸ばす。その中にお茶が入った瓶とカップがしまわれているのは、さっきから見ていたから知っていた。
「あっ」
その動きはニナにとって、染みついたものだったのだろう。彼女はスイの手を追うように手を伸ばし、途中で指を丸めて止める。目的地を失ってしまった彼女の手は、ふらふら迷って膝に着く。
スイはバスケットから瓶とカップを取り出すと、そこにお茶を少なめに一杯。それをニナに差し出した。
「え……、カラスさん、おかわりだったんじゃないんですか?」
「? うん。これでニナ、僕たちと一緒になるでしょう?」
ニナを除いた二人は、手近なところにお茶がある。これでニナも同じ条件になれる。
「そうだな、俺らと一緒に、ゆっくり茶でも飲みながら食事にしてほしいな。せっかく遊びに来たんだ。こういう時間も共有しないと、意味がない」
「…………はい」
ニナは両手でカップを受け取る。中のものをそのまま一口だけ飲んだ。
「なんだかつい、遠慮しちゃって。逆に気を遣わせてしまいましたね。ごめんなさい。それから、ありがとうございます。……ご飯、ちゃんと食べます」
「おう、そうしてくれ」
「はい! それじゃあ改めて、いただきます!」
ニナは、とてもよく食べる。食べ物へのこだわりが強いらしく、何か手に取るたび、それの話を始めた。
「このオムレツ、私の大好物なんです。シャラさんから教わったレシピなんですけど、この、ふわふわ感を出すのが難しくて難しくて……だいぶ安定して出せるようになってきたんですけど、今でもときどき失敗しちゃうんです。今日はうまくいってよかった」
「こっちのサラダは木の実がメインなんです。サラダっていうとシャキシャキ食感というイメージだったんですけど、こういう、コリコリとした食感がメインのサラダも食感が楽しくていいですよね。ドレッシングもうまく作れててよかったです。ドレッシング、たまに配合を間違えて大変なことにしちゃうんですよねぇ……」
「こっちの丸いのはお芋を丸めて味付けしたものです。今はしっとりとした食べ物ですけど、出来立てもほくほくしておいしいんですよ。今回はお弁当用に持ってきたかったので、ちょっと濃い目に味付けしています。調味料ちょっと変えるだけで全然味が違うので、アレンジしやすくて飽きないお料理です」
どの食べ物の話もかなりの熱弁を振るいつつ、合間に手早く食べていく。器用だ。そして何より、とても楽しそうだ。料理という行為も、食べるという行為も、そして、誰かと話すことも、どれも等しく好きなのだろう。
一人加わるだけで、箱の中身の減り方は加速する。すべての箱が空となり、自然、食事の時間は終わってしまった。木の箱全部はバスケットの中へ。シートの上は、ずいぶんとがらんとしてしまった。あとには瓶の中で揺れる、ほんのわずかな茶だけが残る。それもまた、あと少しでなくなってしまうだろう。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
「はい、ごちそうさま。……ちょっと多めに詰めてきたつもりだったんですけど、少なかったですかね?」
「いやいや、充分だろ。俺は満腹。特に最後のパイがな」
スズは苦笑しながら胃の辺りを撫でる。服に隠れてよく見えないけど、とても膨らんでいるに違いない。
「あれ、すごくうまかった。できればもっと食べたかったな」
「本当ですか? 嬉しいです! ありがとうございます。じゃあまた今度作りますね。カラスさんはあのパイ、どうでしたか?」
「うん……すごくおいしかった。それから……」
空を仰ぐ。綺麗な青と、白い雲。注ぐ光は、暖かい。
「こういうところで何か食べるのって、すごく気持ちいいんだって思った」
「はい! 誘ってみてよかったです1 それじゃあ、しばらく食後の休憩をしましょうか」
「だな。俺、しばらく動けそうにない」
ちょっと大げさに言っているわけではないらしい。スズはその場で体を倒し、ピクニックシートの上で横になる。目まで閉じってしまった。
「カラスさんはどうされますか?」
眠ろうとしているのかもしれないスズを気遣うニナは、小声でカラスのこれからを問う。
スイは余裕があった。今までの旅路どころか、ここ十年間の中でもっともたくさんの量の食べものを口にしたはずなのだが、体に不快感、違和感はない。代わりに、満腹感もなかった。腹の辺りを撫でてみても、特別膨らんでいる様子はない。スイが食べたものは、いったいどこへ消えてしまったのだろう。……自分の体は、どうなっているのだろう。
「カラスさん?」
「あ……うん、ごめん」
スイは立ち上がる。そうして、なるべく素早く靴を履き、そうしてからハンカチを回収する。そっとポケットに忍ばせて、丘全体を見渡した。色とりどりの花々が目に映る。
「しばらく、ゆっくり花を見てみたい」
「わかりました。私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「うん、それはいいよ。でも……本当に、花を見るだけだよ」
特別なことなんて、何もするつもりがない。一緒に見ても、ニナにとっては退屈ではないのだろうか。そう心配したが、ニナは、おかしそうに笑う。
「それでいいんですよ。だって私も、ゆっくりお花を見たいだけなんですから」
「あ……そうなんだ」
「はい! じゃあ、行きましょうか!」
ニナは飛び上がるような勢いで立ち上がると、そのままシートの外側にきちんと揃えられて置かれていた靴の方へと向かう。とても軽やかな動きは、満腹感に苦しんでいるようには見えない。彼女にはまだ余裕があるようだ。
「スズさん、行ってきます」
靴を履きながら、スズに一声かける。スズの何もかもは動かない。ただ、片手をちょっと上げる。たぶん、「わかった」なんて意味がある。
「それじゃあ、行きましょう」
シートからそう離れていないところに咲き誇る花々をじっと眺める。枯れかけでも、花は花。……綺麗なものには違いない。
「花、好きなんですか?」
「んー……」
どちらだろう。すぐには答えかねた。肯定も否定もせず、花弁に手袋越しの手で触れる。かさかさ、乾いた音がした。この花もまた、萎れつつある。
「花は……昔は、好きだったような気がする」
「昔……ですか?」
「うん。昔は花って綺麗だし、見ると誰かを喜ばせられるから、すごくいいものだって思って、だからとても欲しいものだった」
病床に伏せ、寝たきりの時間が増えていく母に、スイはしょっちゅう草を渡していた。とても細くて弱い、そんな雑草。それを見つけるたび、母へ渡していた。そのくらい、スイの身近には花がなかった。ゆえに憧憬は、積もり積もっていったのだろう。
「今も花って、そういうものじゃないですか?」
「うん、そうだね。……そうだけれど」
皮肉だ。
うつむいた拍子に、髪が肩を滑って、手のすぐ近くに落ちてくる。それを指先で撫でた。この髪を辿っていけば、やがて蔦と花に着く。あんなに欲しくて欲しくて、探し回って求めていた花は、今はスイの全身を包み、あちらこちらに咲いている。……花が欲しいなんて思い、とっくに枯れてしまった。
枯れるのを待つばかりのこの花を治してやるのは簡単だ。だが、この丘すべての花、このララカの街のすべての農場の商物をと考えると、気が遠くなるような時間がかかるだろう。それに何より、どうしてかそれへの強い抵抗感を覚えた。以前、マナの村の畑の植物を治した時には感じなかったものだ。
マナの村にいたとき、何かをずっと感じていた。それは、うまくカラスになれない自分への焦りや、人の目に感じる違和感から生まれる焦燥感が主立ったものだった。
だが、これは、今、スイの中で疼くものは、マナの村に滞在していたときとは異なるものだ。忘れたいことがあったということを思い出し、そして、その記憶を今、強く切望している。
遠くを眺める。風に揺れる麦の穂は、ざわざわ微かに鳴いている。麦畑の一角、周囲の麦に比べるとかなり小ぶりな麦が茂る場所がある。農園の人々が、その麦を刈っていく。スイが知る麦に比べて、それらの麦は、遠目で見てもうまく成長できていない印象だ。麦が病に侵され、それが畑中に広がらないうちに刈っているのだろう。そのせいか、それらを刈る人々の背中は、ひどく悲しげに見えた。
(……あ)
弱っていく、麦。それに嘆く、人の姿。既視感を認識すると同時に、頭の奥で石の雨が降り注ぐ。
……記憶の中のそれと、現実の中のそれとは、大きく異なる点があった。人々は、瞳に身も心も焼き尽くすような怒りを宿していない。
――今までどうしてこんなにも綺麗に忘れていたのだろう。今となっては、不思議に思う。それくらい自然に、そして生々しく鮮明に、その記憶はスイの中で蘇った。
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