四章 花の国のカラス姫

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 母に供える花が欲しかった。だが、枯れた大地に花は咲かなかった。  そう、この国がまだ国と呼ばれる枠組みになかった頃、この大地は枯れていた。ひび割れた硬い荒野から、ときどき細い草が生えることはあっても、それはすぐに枯れてしまう。緑など見ることはほとんどない不毛の大地。それがここだった。  だが、唯一の例外があった。少年が暮らす小さな集落を出て、太陽が出る方角にひたすら進んだ先にある塔の周囲には、花が咲くのだ。この土地で唯一豊かなその地はあらゆる人々が永住を願ったが、それは叶わなかった。  ――塔には魔女が住んでいたのだ。 彼女は非常に意地が悪く、塔の周囲に人が住むことを許さなかった。この地に咲く唯一の希望を、彼女一人が占有していたのだ。だが……たくさん咲く花のうちたったの一輪くらいならば、分けてもらえるのではないだろうか。そう考え、集落を出た。  塔の周囲には噂通り、花が数えきれないくらい咲いていた。初めて見る花畑は、とても、綺麗だった。  それでも少年は、花をたくさん摘もうとは思わなかった。塔に住むという魔女に小さく謝ってから、花を一輪、手に取った。茎を半ばで折って踵を返す。すぐに帰ろう。 「駄目よ」  だが、許してはもらえなかった。  黒い髪の少女が立つ。彼女は悪意を一切感じさせない笑顔を浮かべながら、人差し指を左右に振る。 「私の花を摘んだのね。人のものは盗んじゃ駄目ってお母さんから教わらなかった?」 「それは……それは、教わったよ。教わったけど……こんなにたくさん咲いているんだ。ちょっとくらい、一輪くらい分けてくれたっていいでしょ? お母さん、花が好きだったんだ。昔、一輪だけ見たことがあって、それがすごく綺麗だったって聞かせてくれた。最期にもう一回、見せてあげたっていいでしょう?」  甘えがあったのだろう。そういえば、きっと許してくれる。だって人はみんな、支え合って生きている。少年の集落はそうだから、彼女だって、事情を知ればきっと一輪くらい。  魔女は哄笑する。少年の懇願を、とっておきの冗談でも聞いたような調子で大笑いした。 「あなた、面白いことを言うわね」 「面白い?」 「ええ、とっても面白い。あなたが言ったことって徹頭徹尾、全部自分の都合じゃない。私の事情はどこに行ったの? どうして私が見ず知らずのあなたの事情に同情して、私の花を渡さなければいけないの? おかしいわ。そんな不条理なことってないわよね。たくさんあるからいいだろうって、どうしてたくさんあると一つ一つの価値が薄れてしまうって思うのかしら。あなたにとって命ってそういうもの? たくさんいる人は、一人一人死んでもどうでもいいっていうの?」 「そんな、そんなこと……」  そんなことを思ったことも、言ったつもりもなかった。魔女は曲解が過ぎる。 「そんなことってあるわ。だって、あなたが最初に私の庭を荒らしたんだから」  反論を叩き潰され、魔女は尖った爪で少年の鼻の頭を突く。真っ赤に染まった爪は、蔦と花の絵が描かれていた。 「ねえ、そんなに花が欲しいのなら、私があげる。強欲な盗人さん、あなたに罰をあげる」  爪の中の絵に過ぎなかった蔦と花が、少年に向かって伸び始める。逃げたかったが、足に杭でも打たれてしまったかのように、一歩たりとも動けない。 「……私の呪いよ」  ――目を覚ました。  遠くに荒野が見えた。物心ついたときから見つめ続け、それゆえ、不思議と愛着がついてしまった不毛の大地だ。  だが近くには、故郷の象徴ともいえるそれがなかった。代わりにあるのは、蔦と花。  少年は跳ね起きる。ひどく動きづらい。見れば、自分の体に地面に茂る蔦が絡みつき、拘束具のようになっていた。蔦を引きちぎり、そうしてやっと自由を手にする。目に映った景色に愕然とした。……草すら滅多に生えないはずの大地に、少年の中心だけに限り、蔦と花が生えている。  さらに、おかしなことがもう一つ。少年の手の中に、蔦とは違う、いくつかの種がある。代わりに握りしめていた花は、その姿を綺麗に消していた。まるで花と種が取って代わってしまったようだ。  種からはいずれも小さな芽が出ていた。荒野にときどき生える草とは、明らかに種類が違った。  何が何だかわからない。混乱する少年だが、たった一つの言葉が焼き付いていた。  ――呪い。それと今の自分の状況が無関係とは、どうしても思えなかった。  周囲を見回す。枯れた大地の特徴はどこもあまりないが、ところどころにある岩の形に少し見覚えがある。おそらく、少年が暮らす集落からそう離れていないところだろう。遠くを見るよう意識して目を凝らすと、遠くに塔を見つけた。……どう見ても、集落の方が近いだろう。あれからどれくらい時間が経ったかわからない。もしかしたら、集落の人々が心配しているかもしれない。一度、帰った方がいいだろう。   芽吹いた種はどうするべきか悩んだが、結局、持って帰ることにする。状況から考えてこの手の中の種は、きっと彼女が持たせたものだ。勝手に捨てては、さらに手痛い何かをされてしまうかもしれない。  恐れを胸に、一歩進んだ。進むたび、足の裏にわずかな違和感を覚えた。その正体は、自分が茂らせてしまった蔦と花たちから抜け出した瞬間にわかった。  一歩進むたび、足元にうっすらと蔦が茂った。こんなにも何もない場所だから、悪目立ちしてしまう程度の量だが、確かに自分の足元から蔦が茂っていく。  ……これが、呪いなのだ。思っていたよりは禍々しくないが、異常なのは間違いない。害ある何かではないだろうか。それだけを心配しながら、一歩、また一歩、慎重に進んでいく。時たま振り返って異変がないか確認するが、蔦は単なる蔦であり続ける。……大丈夫、なのだろうか。 (……帰ったら、集落の人たちに相談してみよう)  そうすれば、きっとみんなうまくいく。集落の人々は頼れる大人たちだから、何かしらの導きをくれるはずなのだ。
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