四章 花の国のカラス姫

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 集落に帰ると、小さな集落は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。どうやら、ちょっと出かけてくると言ったきりなかなか帰ってこない自分を人々はずっと捜していたらしい。それはちょっと心配しすぎだと返すと、集落の人々は顔を真っ赤にして、少年を叱った。どうして叱られるのだろうと思いつつ、黙って彼らの話に耳を傾けていると、自分が姿を消してからなんと五日も経っているらしい。 「五日間、いったい何をしていたんだ?」  記憶も実感もない。わからないと答えるしかなかった。  集落の人々と話していると、椅子として使っている石が、じわじわと蔦に侵されていった。さらに手のひらに握ったものは、すでに芽とは呼べないくらいの大きさに成長しきってしまっている。すると集落の中でもっとも高齢の男は目を剥いた。 「それは麦じゃないか!」 「麦?」 「食べ物になる植物だよ! 遠い異国では主食として食べられていると聞く。私が幼いときは大人たちがなんとか根付かせようとしていたようだが、ここまで土地が痩せ、水すらないこの土地ではうまくいかなくて枯れてしまっていたよ。せっかく用意した麦を加工するための道具や、畑を耕すための道具も、結局何もかもが無駄になってしまって……。こんなに育ったものを見たのは、最初に異国の人間が持ってきたものを見たとき以来だよ。こんなもの、どこで手に入れたんだ?」  答えられることはあまりなかった。それでも、なるべく丁寧に過去を振り返って、あったことすべてを話す。 「ではこれは、塔の魔女が授けたと? それに最初、これは小さな芽に過ぎなかったのか?」 「うん、そう。種からちょっと出てるだけの小さな芽。麦っていうのは、そんなにも成長が早いものなの?」 「まさか! 何日も何日もかけてここまで成長するのが普通だ。目覚めてから時間はそう経っていないのだろう?」 「うん」 「そんなことはありえない。こんな土地だと、そこまでこぎつけるのにいったいどれほどの時間がかかるか……」 「じゃあ、いったいどうしてここまで育ったんだ?」 「……わからない。ただ、尋常ならざることだ。間違いない。だが、椅子がほんの短時間のうちに蔦が茂り始めているのを見ると、やはり魔女の呪いが植物に何らかの影響を与えて成長させていると考えるのが自然だろう」 「でも、いったいなんで魔女はそんな呪いを? これは呪いというよりまるで……」 「そうだな、まるで、とても大きな救いと恵みだ。あの魔女が、いったいなぜそんなものを我々にもたらしたのか」 「……この植物、どうしたもんかね」 「……そうだな、慎重に考えなくてはいけない。どんなに素晴らしいものであっても、彼女はこれを呪いと呼んだのだから。だが……」  大人たちが深刻な顔をして話している間にも、手の中で、徐々に徐々に、麦は育っていくようだった。石に蔦が広がっていく速度は緩やかなものなのに。どうやら、体の部位ごとに呪いの力に差があり、少年の手の呪いは特別に強力らしいらしい。 「……今、ここにここまで育った麦がある。もしも魔女の呪いが我々にとって益になるものならば、ここで見過ごすのは、あまりにも愚かな判断だ」 「それはそうだけどさ……」  大人たちの迷ってしまうわけは、なんとなくわかった。この呪いは、不気味なものに違いないが、大きな脅威には見えない。……だからこそ、恐ろしい。  ずっと座っていると、足元に、小さな花が咲いた。それを摘まんで手折って、ぼうっと花を見つめる。あんなに欲しかったものなのに、今はあっけないくらい簡単に手に入るものになってしまった。……母に供える花を捜して延々歩き続けることは、きっと、もうない。  母のための花を見つめていると、母の顔が思い浮かぶ。病に伏せった母は、それでもしょっちゅう笑みを浮かべて、何かするたび、優しく褒めてくれた。 「いつもありがとう」  優しい声が、今もちゃんと残っている。 「……あの」  ――それは、ほんのささやかな思いつき。けれど、大人たちは優しいから、きっとこの結論は出せない。頭の中にそれを出せたとしても、口からは絶対に出せないのだ。だから自ら、言ってみる。 「僕が、集落から離れたところで生活してみようと思う。そこで、この麦を育ててみたい。そうしたら、ここには迷惑をかけずに済むよね」 「離れて暮らす? いや、しかし……不便が多いだろう。危険も多い。数自体はそう多くないが、集落の外には危険な獣が多くいるんだぞ。一人で一か所に留まり続けるのはあまりにも危険だ。お前の母の墓もここにある。それはあまりにも……」 「いや……そうしてもらうのが一番いいだろう」 「しかし」 「集落の者の命がかかっているんだぞ。もしかしたら魔女が気まぐれに手を差し伸べただけかもしれない。その可能性をみすみす捨てられる余裕が、我々にあるか?」 「…………」  制止しようとしていた男は黙り込む。  日々の暮らしは、厳しいものだ。食べるものが足りない。飲むものが足りない。母の病だって、元を辿れば、この苦しい日々が起因しているのだと、旅の医師が言った。誰も彼もが、救いを求めている。呪いは、救いになるかもしれないのだ。 「まめにそちらの状況は確認させてもらう。何かいいものが手に入ったら、なるべく優先的に提供しよう」 「ううん、大丈夫。たぶんこれ、食べればいいと思う」  暮らしの厳しさは身に染みてわかっている。支援は受けられない。自分から発生する蔦や花があるのだから、これを口にしていればきっと凌げる。自分から発生したものが自身を蝕む毒になるという可能性も、きっと薄いはずだ。たった一人でもきっとなんとかなる。  大人たちにとって、その申し出はありがたかったのだろう。彼らは何も反論せず、ただ「すまない」とそれだけ言った。
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