四章 花の国のカラス姫

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 集落の家はずっと昔、まだこの土地がここまで枯れていなかった頃に作られた住宅を使っている。これら住宅は何もない荒野にところどころ建っている土の家だ。かつてはもっとたくさんあったと聞くが、老朽化が著しく、他の建物を巻き込んで崩壊しかねない建物を解体したり、素材が必要になって壊したり、そういったことを繰り返していった結果、現在の数にまで減少したらしい。  身を寄せたのは、そういった、誰も住んでいない空の家だった。家具の類は何も残っておらず、長く放置されているため、室内は埃っぽい。立ち入った瞬間、小さなくしゃみが出た。  ここに来るまでに苗と呼んでいいのか少々迷うほど成長してしまった麦の苗を一本だけ、家の傍らに植えてみる。硬い土を貸してもらった杭で穴を力づくで作り上げ、そこに根らしきものを置き、軽く土を被せてから指で押して固めていく。他のものも同様に、家の中に植えることにした。どうやらこの力は、自身の周囲に影響を及ぼすものらしい。それならばきっと、自分からそう遠くない場所の方がいいだろう。ゆえに、長く過ごすことになると思われる屋内の方が好ましい。家の床を強引に崩して穴を開け、そこに残りの苗をすべて植えることにした。 「……本当に、育つのかな」  わからない。ただ、育ったら、きっとみんな喜ぶことは予測できた。それは誰もが夢に見た、絵空事の成就。……叶ってほしいと、希う。  ここは、いったいどこなのだろう。目を覚ますたび、戸惑いを最初に感じる。  目を覚まし、毎日目に入るのは、蔦に覆われ、花に覆われ、それゆえ本来の姿が一切見えなくなった天井だ。壁も床も、すべてがそういった調子で、本来のこの家の姿がちっとも思い出せない。……たった五日で、すべてが様変わりしてしまった。  自分がしたことなど、ただここで過ごし続けただけだ。たったそれだけなのに、この家は外も中も蔦と花に覆われきった。日に日に蔦や花の面積は広がっていて、今では家の周囲が豊かな自然に包まれつつある。さらに蔦や花の合間から、それらとはまた違う植物が覗き始めてもいる。よく見るそれは、ごくまれに、奇跡みたいに芽吹く雑草だ。この荒野ではときどき見かける。だが今は、そう珍しいことではないかのように、蔦や花の合間からでたらめに顔を覗かせていた。  これといった知識はないため、自信を持って言えないが、麦の成長も順調のようだ。うまく根付いたようで、姿勢正しくまっすぐ立っている。様子を見にきた集落の住人は、あまりの順調さに唖然としていた。 「体の調子はどうだ?」と、集落の人間に訊かれた。これといっておかしなところはないと答えた。……嘘だった。  どんなときでも正直でありなさいと母は言った。そんなこと、当たり前だと感じていたけれど、今の自分にはその当たり前は少々難しく感じる。  ……いくら起きていても、眠くならなくなった。前は、ちょっと遅くまで起きているとそれだけで瞼が自然と落ちていったのに、今はどんなに起きていてもそうならない。睡眠を取ることはできる。だが、必須ではないようなのだ。それに伴い、疲労感を覚えることもなくなった。何をしても、横にならなくても、疲れたという、前まで当たり前にあった感覚がごっそり欠けてしまった。  食事も必要なくなった。何も食べずに過ごしていても、ちっとも空腹感を覚えない。そういった神経が狂ってしまったのかとも思ったが、飲まず食わずで過ごし続けても、不調の類はまったく感じなかった。  おかしい。間違いない。だが、そのおかしさを大人たちに訴える気にはなれなかった。  おそらく、これらもまた、呪いの一種だろう。ただでさえこの呪いに戸惑い、困らせてしまっている彼らに、さらなる負担をかけたくはなかった。幸い、この呪いに害はないし、隠そうと思えば隠せる程度のもの。秘密にしておこうと、心に決めた。
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