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麦は無事、成長しきった。だが、そんなことは些事に過ぎなかった。
ただ、そこにいただけだ。それなのに、住家としたその家を中心として、辺りは花と草が芽吹く野原となった。当初は目立っていた蔦は、今は茂った草に飲み込まれ、すっかり見えづらくなった。
集落に迷惑をかけないよう、故郷の集落から距離があるところを拠点としたのだが、草原はじわじわ範囲を広げ、故郷の集落まで辿り着いていた。その頃には最初の家の周囲には小さな木も目立つようになっていた。
……ただ、そこにいただけだ。それなのに、ほんの数か月のうちに世界は一変してしまった。
飢えていた集落の人間に、草原のものを口にするなと言うのは、あまりにも酷だった。飢えた人々は止める人々の声を聞かず、生えてきた草や小さな実を口にした。……体に何らかの不調が現れた人間は、誰もいなかった。安全だと感じてしまった人々は、我先にと草原のものを口にし続けた。
飢えへの恐怖。明日が来ないかもしれない不安。今日の命は繋げても、明日はどうだかわからない。
……そういったものに苛まれ続けた人々にとって、それは、とても大きな恵みだった。人々は一様に感謝の言葉を口にして、自分のようなただの子供に頭すら垂らした。
草原は決して人々の貪欲さに飲み込まれることはなく、その範囲をさらに拡大していき、やがて、隣の集落までに辿り着く。その頃には麦畑ができ始めていたし、単なる集落の子供に過ぎなかった自分は、特別な、奇跡をもたらす存在となっていた。
知っている人は誰もいなくなった頃だった。ある日、人々に乞われるがまま、生まれたこの大地を旅することにした。
ここは、広いとは言い難い島。島のほぼすべてはいまだ枯れ果て、荒み、人々は希望を失い今日を生きていた。自分が求められたのは、絶望した人々に希望を届けることだった。
ただ、恵みが届かぬ土地に足を運び、そこにしばらく滞在するだけでいい。たったそれだけで、その土地は前とは比べ物にならぬほど潤った。そう、潤うのだ。枯れた大地から水すら湧き、そうして茂る植物を癒していく。湧きだした水はやがて雨となり、そうして人々は、飢えとも、渇きとも、決別できる。
奇跡だと、人々は咽び泣いた。苦しみも不安も、すべてが消えてなくなったここは、まさに楽園だと、人々は讃えた。……それが、とても嬉しかったのだ。
誰かの助けになれるのは、素晴らしいことだ。きっと母も、遠い世界で喜んでくれると思えたから、人々の笑顔を見るのが嬉しくて、楽しくて、それが呪いであることすら忘れ果てた愚か者は、小さな島の中を巡り始めた。隅から隅まで恵みを与えるべく、旅を続ける。感謝の言葉を浴び続け、そうして、やっと人が住まう大地のほぼすべてが潤ったから、故郷に帰って愕然とした。
故郷の集落が誇っていた麦畑は、数年留守にしている間に、ほぼすべてなくなってしまっていた。大地に根差していたはずの木も、あんなに溢れていた花も、何もかもが荒野に染まっている。
この集落を旅立って、一年ほど。急速に植物が枯れ始めたらしい。
どうしてと、人々は詰め寄った。わからないと、無力に答えるしかなかった。それが人々にとっては、ひどく無責任に感じたようだ。あらゆる冷たい言葉が、あちらこちらから飛んでくる。それはやがて、石の雨へと変わっていった。
故郷の集落は、早くにこの呪いの恩恵を受けてしまった分、人口が凄まじく膨らんでいた。結果、人々は残った僅かな作物を奪い合い、殺し合い、今、残っているのは、そうやって生き延びた人々なのだという。今となっては、取り合うだけの作物すら残っていない。
あんたのせいだと、誰かが言った。そうだそうだと、みんなが口を揃えて言った。
自分はすでに、恵みを与える聖なる存在などではなくなっていた。恵みを与え、恵みを奪い、そうして争い合う人々を嘲笑う、そんな魔物と成り果てた。
(あなたたちが)
赤黒く、思いが燃える。
最初に、この力の恩恵を求めてきたのは確かによその集落の人間だった。けれど、この集落の人間はそれを拒絶しなかった。むしろ、にこにこと愛想よく笑って、自分たちだけがこの恵みを占有するなど、あってはならないなんて綺麗なことを言って、だから行ってあげてくださいと、そう微笑みかけてきたのは、この集落の人間たちではないか。
(あなたたちの判断の責任を、どうして僕が押し付けられているの)
初めて覚えた強い憤りに、自分の全部が焼けこげそうだった。だが、石の雨はそうしている間も降り注ぐ。自分にできるのは、本当にわずかなことだけ。この身は人ならざる者ではあるが、決して万能ではない。むしろ、よいものを食べて育った今のこの集落の人間に比べると、この身はいっそ笑いがこみ上げてくるほど貧弱なものだ。彼らに抵抗することはできない。体を丸め、ただ、耐え続けるほかなかった。
空が青かった。雲はなかった。口の中に、鉄錆びのような臭いがした。
……ここには、もう、住めなかった。
人々は散々痛めつけると、ある程度満足したのか、ぽつり、ぽつり、立ち去っていった。この荒れようでは食べたくても食べられない日々が続いていただろうから、その分、強い疲労感に苛まれているのかもしれない。なんにせよ、逃げるにはこの上ない好機だった。ボロボロの体をなんとか起こす。近くにうずくまっていた男と目が合ったが、彼はさっと目を逸らした。……あんなに痛めつけてもまだ立ち上がるこの身に、嫌悪や恐怖の類を覚えたのかもしれない。
母の墓のことだけ、気がかりだった。だが、墓は墓。持ち運ぶことはできない。荒らされないように。それだけ祈って、逃げるように、故郷を出た。
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