四章 花の国のカラス姫

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 そこだけは、何も変わっていなかった。  天に向かって建ち続ける塔と、周囲に咲き乱れる花と花と、花たち。居場所を求めて、気づけば、ここまでやってきてしまっていた。 「おかえりなさい」  彼女は花園の中に、一人で立っていた。  黒い目が少しだけ歪む。どうやら、笑っているらしい。 「……全部、こうなることが、わかっていたの?」 「いいえ。可能性の一つとは思っていたけれど、絶対にこうなるとは思っていなかったわ」 「それは、わかっていたということじゃないの?」 「それは、あなたがそう思いたいだけということではないの? 人が嫌いで、嫌いで、嫌いで嫌いで嫌いで、そう思うようになった自分も大嫌いで、自分のせいで誰かが死んだことに震えているあなたが、その責を私に押し付けようとしているだけではないの?」 「……っ」  耳を塞いだ。彼女の言葉は、まるで毒。聞いていると、全部が腐って……壊れていきそうだった。 「ふふ、うふふふっ、やっぱり花泥棒さんってば意地汚いしみっともないわ。ねえ、わかってる? それもこれも、全部が全部、あなたが私の花を摘んだからなのよ!」 「…………わかってる」  何もかも、自分が悪いのだ。 「そう? 案外殊勝じゃない。  ……でも、そうねえ。殺し合いにまで発展するとは、私もちょっと予想外だったし……。そうだわ! 私と一緒にごめんなさいしましょうよ」 「え……?」 「ごめんなさいよ、ごめんなさい。人間関係において、挨拶と感謝と謝罪は大事なものだっていうでしょう? ねえ? ふふふ。  この塔なんだけれどね、この塔とこの島は、地下で繋がっているの。まあ、南はなんでか繋がっていないけれど、それはどうでもよくて。とにかく繋がっているのが大事なところ。ねえ、わかるかしら?」  わかりっこなかった。そもそも彼女のいうところの『繋がり』が意味するところすら、さっぱりわからない。 「あら、その顔はわからないって顔ね。そうねえ、じゃあ、こういえばわかるかしら。  あなたが塔の最上階、この塔の中枢であるあの部屋にい続ければ、あなたにかけた呪いは島中に伝播して、島全体に広がるの。あなたがわざわざその場所に行って、滞在して、そういう七面倒なことをせずともよくなるっていうこと。今度はわかったかしら」 「……そんなことが、可能なの?」 「可能よ、可能。ああ、あなたが人を助けたくないのなら、塔で過ごさなくてもいいと思うわ」 「人を……」  昨日まで感謝していた相手に、石を投げつけ、罵倒した。今日まで一緒に過ごしていた相手を、自分が生きるために殺した。今は、見えない明日に怯えて震え、そうやっていがみ合う余裕すらないようだった。  彼らを救う方法があるのだと、魔女は言う。 「救って……それから、どうなるの?」 「さあ? どうにもならないわ。とりあえず、あなたに感謝するっていうことはないんじゃないかしら。一度信頼して裏切られたと思った相手をもう一度信頼するような人って、滅多にいないものよ」 「…………」  故郷の集落の方を見る。視認はできない。だが確かに、あそこにある。  あそこは、いい場所だった。人がいて、みんな笑っていて、幸せそうで、作物が実るたび、嬉しそうに見せにきた。何度感謝を浴びただろう。何度笑顔を見ただろう。……何度それらに、喜びを感じただろう。そんな彼らの多くは、すでにこの世にはいない。だが、ほんの一握り、まだ生き残っている者がいる。彼らをそんな目に遭わせてしまったのは、無知で浅慮な自分でもある。  どのみち、このままでは、人々の暮らしはよくならない。人口が増えている分、過去よりずっとつらくなるはずだ。……彼らの顔は見たくないけれど、それでも、苦しんで死ねばいいとまではどうしたって思えないのだ。 「……わかった」 「わかったの?」 「うん。塔に行く」 「そう。それはよかった」 「……でも、君はどうして、そんなことを教えてくるの? ……また何か、嫌なことを考えている?」  また同じようなことが起こってはいけない。この状況を放っておくこともできないが、だからこそ、これから先のことが気がかりだった。彼女が正直にすべて答えてくれるとは思わないが、それでももしかしたらということがある。念のため、訊いてみる。 「まさか。私ってば魔女だけど、とっても穏健よ。争いや悲しみ、そういうことはあってもいいとは思うけど、少ない方がいいと思っているわ」 「……嘘、だよね。だったらこんなこと、しないよ」 「嘘じゃないわよ。嘘だったらもっと早くこういうことが起こっていると思わない?」 「思えないよ」  そんなにお人好しにはなれない。彼女はどうしても疑わしい。 「まあ、ひどい」  そうやって悲しむふりする彼女の瞳は笑っているから、疑心はさらに強まっていく。 「……でも、そうねえ、あなたに呪いをかけたのも、あなたに塔のことを教えたのも、すべては私の興味に尽きるわ」 「興味?」 「そうよ、純粋な知的好奇心。……私はね、人を知りたいの」 「人を、知る?」 「ええ。人はどうして笑うの? 人はどうして泣くの? 人はどうして怒るの? 人はどうして楽しいと感じるの? それらの感情の根源って何? どこから湧いてくるの? 人はどうして生きているの? 特に人と人の繋がりは不思議だわ。人は人と関わって、笑顔になれる回数って、実のところ少ないのよ。小さな口喧嘩、小さな諍い、小さなしこり。そういうものを自分の中に延々積んでいくの。おかしいわよね、人と深く関わらなければ抱かずに済む感情なのに。  私はね、自分の中のそういうとりとめのないあらゆる疑問の答えを知りたいのよ」 「……よく、わからないけど、君は人がみんな持っている感情がないみたいなことをいうね」 「あら、ないみたい、じゃないわ。現実、私からそれは欠けているの」 「そんな風には、見えない。君はなんとなく……僕と同じようなものだと思っていた」  例えば、人の中に当たり前にあったものが、あるときふと、遠のいたような、そういうもの。彼女もまた、何かに呪われて……そうして、今日に至ったのではないだろうか。単なる直感的な予測だが、そう思ってしまった。 「そう? それは私の研究のおかげね。人の真似をし続けていたから。  あなたにまつわるすべても、この塔に近寄った人に適当な呪いを振りまいていたのも、観察のため。わかりやすい異常がある方が、観察って捗るのよね。  ねえ、あなたはわかる?」 「え?」 「人はなぜ、悲しみ、傷つきながらも誰かと一緒に生きるのか」 「……そんなの、わからないよ。一緒に生きるなんて、そんなの……」  今の自分には、想像だってしたくない。 「つまらないわね」  いっそ一笑された方がいい評価を真顔で下された。 「いいわ、興が削がれた。塔へ行きなさいな」 「……うん」  魔女に追い払われるようにして、その場を立ち去った。塔の扉を押し開けて正面に扉があり、その扉の横側に階段の入口がある。階段の先は薄暗いが、曲がっているせいで見えないのがわかる。おそらく、螺旋階段なのだろう。  階段に足をかける。一段、一段、上っていく。  ……魔女はこれからどうするのだろう。人に対して明確で残酷な悪意の類は持っている様子はなかったが、興味はいまだあるようだ。信用できない。それに、さっきの問答のことが気になって、あのやりとりを何度も反芻してしまう。  人はなぜ、誰かと生きるのか。そんなことは知らない。考えたこともない。生まれたときには集落にいて、母や集落の住人がいつも近くにいる場所で育った。彼らみんながいなくなってからも、自分じゃない誰かが常に側にいた。近年、側にいた人々と自分との間にある遠慮という名の壁に寂しさを覚える日もあったが、中には気安く話してくれる人もいて、そんなときは、笑っていた。 (……ああ、そういえば)  そうやって、友達みたいな感覚で話しかけてきてくれた人の姿は、枯れ果ててしまったあの集落には見えなかった。飢えか、争いか、どちらかの理由により、死んでしまったのだろう。生きていたら、彼の目も、燃える憎悪がたぎっていたのだろうか。今となっては知る術はない。だが、きっとそうだろうと、信じてしまっている自分がいる。 (……嫌だな)  信じられないのも、信じてもらえないのも、どちらも嫌なものだ。それもまた、人と人の繋がりがもたらすもの。それならば。……それならば。  ――もう、いい。  死んでほしいなんて思わない。だが、生きてほしいとも思わない。それがすべてだ。  階段を上りきる。石の扉を見つけた。上り階段を探すが、見当たらない。つまりはここが最上階だ。  石の扉に近づく。全体を隈なく見たはずだが、ドアノブらしきものは発見できなかった。開け方として正しいのか自分自身に疑念を持ちながら、扉に肩を寄せ、体全体で押す。想像より簡単に扉は動いていく。自分だけが通れる隙間ができた。その隙間を通り抜け、室内に入る。  室内は薄暗い。唯一の光は、やや高いところにある窓だけ。その窓は身長よりずっと高いせいで、外の景色は何も見えない。  ここで過ごせば、この島全体にこの力が広がって、皆が助かるのだという。本当かどうかはわからないが、どのみち、他に頼りもない。部屋に入って、そうして、石の扉を閉ざす。  閉じた扉から体を離し、ふと、扉を見上げて、気づけば扉に両手を添えていた。  ここにはもう、誰も立ち入ってこないように。ここで、いつか来る終わりを静かに待ち続けられるように。そう祈りながら、手を添え、そのままただじっとし続ける。石の扉はじわじわと蔦に覆われていく。このままずっと手を当て続ければ、蔦と蔦は絡み合い、きっと容易には開けなくなるだろう。  魔女は訊く。人はなぜ、人と共に生きるのかと。……それならば、人と共に生きないことを選択した自分は、何なのだろう。人ならざる力を持ち、人の間に立つことも避け、そして、食事も睡眠も必要ないこれは、きっと、あらゆる人というものの定義には当てはまらないこの身は、いったい何なのか。  答えは、石の雨の中で、もう出ていた。  ――自分は、魔物だ。
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