四章 花の国のカラス姫

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「どうかされたんですか?」  現実に帰ってくる。ニナの顔が至近距離にある。どうやら、過去の記憶に没入してしまっていたようだ。 「ううん。……ぼーっとしてた?」 「はい。あ、いえ、そうでもないです」 「そっか」  否定を取ってつけたのは、きっと彼女なりの優しさだ。 「お疲れですか?」 「うん、そうかも」 「じゃあ、早めに帰ります?」 「うん」 「わかりました。じゃあ、スズさん、起こしてきますね」 「うん」  ニナが跳ねるように丘を行く。その背を見送る。揺れる黒い髪は、どうしようもなく、大切なものを連想させた。  ――人は、嫌いなはずだった。人と関わるなど、もうこりごりだと思うようになったはずだった。その記憶は気づけば希薄になり、そんなとき、彼女が滑り込んできた。  彼女がくれた温もり。彼女がくれた、優しい時間。いつか消えてしまうかもしれない、大切な思い出。そういうものをくれた彼女はもういない。 (……不思議だ)  人への強い嫌悪、恐怖、その原因を思い出したのに、スイの中のカラスは、苦しくなるくらいに陰らないでいる。 「大好きよ、あなたのこと」  少し赤らめた頬。幸せそうな、眼差しが、そう言うから。  帰り道。麦畑に挟まれた道を行く。一部、麦がごっそりなくなってしまっている場所があった。不自然なそれは、おそらく、病を持ってしまった不憫な麦がいた痕跡だろう。 「なんか、また元気がないな」  いつにもまして口数が減っている自覚はある。思い出したかったことは思い出せたが、それと一緒に重要な記憶も思い出してしまった。考えなくてはいけないことは山積みだ。つい物思いに耽ってしまう。 「そう?」 「えっ……、大丈夫ですか?」 「大丈夫」  問題はない。目的は達成できた。 「でも……」  何か言いたげなニナの目が正面に向く。彼女の視線を追いかけると、荷馬車が道の向こうからやってくるのが見えた。荷台には麦が目立っているが、その麦の状態は、朽ちかけているように見える。かなり状態が悪そうだ。御者台に座る中年の男は、憔悴した顔で手綱を握る。手塩にかけて育てた麦たちを、他の麦たちを守るために刈り取らなければいけない苦痛は、きっと想像を絶するほど深くて重いのだろう。 「ん……?」  男の目は、スイやスズを見る。見慣れぬ人がこの街はずれにいるのは稀なのだろうか、その目は決して友好的とは言えないものだった。 「あんたたち、街の住人じゃないよな。こんなところでよその人が何してるんだ?」  知っている目だった。 「俺たちは……」 「こちらの方々は領主様のお客様ですよ」  ニナが一歩進み出て、そう宣言する。領主の名に男の顔はさっと引きつるが、それは一時的なもの。少女を見ると、その表情はますます険しくなっていく。 「あんた……領主様の屋敷の黒の子か?」 「そう、ですけど……」 「そうか、やっぱりな。ちょうどよかったよ」  男は御者台から飛び降りてくる。そのまままっすぐニナに近寄り、ニナがわずかに後ずさると、その腕を捕まえて、帽子をはぎ取り、地面に捨てる。 「おい、あんた……!」  見かねたスズが制止に入ろうとするが、何もかもが遅かった。男の手が、ニナの頬を打つ。かなり強い力で打たれたのだろう、小柄な少女は地面に倒れてしまった。 「大丈夫か!?」 「は、はい、大丈夫です」  スズに助け起こされたニナは、笑っていた。笑顔に反してその頬は、ひどく赤く腫れている。 「おい、なんでその黒いのを助けてるんだよ」 「は?」  男は、スズの行動を非難するようなことを言い出した。 「その黒いのが領主様の屋敷にいるから、作物の調子が悪いんだ。みんなとても迷惑しているんだ」 「それはおかしいだろ。ニナのせいじゃない。ニナにそんな大それたことができる力なんてありはしないんだ」 「はあ? 何を言ってるんだか。その黒い髪と目が何よりの証拠じゃないか。黒は忌むもの。それが花の国の常識だろう。やっぱりいかれた領主の客人はいかれているな。黒いやつを庇い立てるなんて、どうかしてるよ」  男に特別な悪意はないようだった。それが常識なのだと言いたげにそう吐き捨てて、御者台に戻る。 「なんでもいいから、その黒いのをどうにかしろって領主に伝えておいてくれ。そうじゃないとこっちは安心して作物の世話もできないんでね」  言いたいことだけ言って、男は去っていく。 (……何も、変わらない)  スイがまだスイじゃなかった頃の人々と、何一つ変わっていない。いや、作物の調子と関係ないニナがその外見だけを理由に、責任が押し付けられている分、あのときよりも人々の醜さは悪化してしまっているといってよいだろう。 「ひどいな。大丈夫か? とにかく、早く冷やした方がいい。屋敷に帰ろう」 「あっ、だ、大丈夫です。よくあることなので……」 「よくある?」 「……こんなことが、よくあるの?」  ニナは自身の髪を掴む。鷲掴みにするその仕草は、実は綺麗で好きなのだと笑っていた少女がやるにはそぐわない。 「はい。その、最近、畑の調子が悪いのを、一部の人が、あ、本当に一部なんですけど、その人たちが、私のせいだって噂しているみたいで」  話しながら、ニナは帽子を深く被る。彼女は自分を守るため、帽子が手放せない。 「それで時たま、こうやって絡まれちゃって」 「さっき、よくあるって言ってたじゃないか」 「あ……」  スズの指摘に、ニナは黙る。……真実はきっと、最初に言った方だろう。 「誰かに相談、してるか?」 「…………」  ニナは首を左右に振り、それから、ゆっくり立ち上がった。服についた土埃を、手で払って落とす。 「どうして相談しないんだよ。周りの人、相談に乗ってくれるだろ?」 「はい、乗ってくれると思います。とても親身になってくれるとも思います」 「そこまでわかっていて、どうして相談しないんだよ」 「日頃からたくさん迷惑をかけてしまっているんです。だから、これ以上はいけないって、そう思って」 「いけない?」 「はい。……その、お二人はとても優しいから、なんだか嘘みたいな話に感じるかもしれないですけど、私が最初にこの街にやってきたときも、お屋敷の前にいろんな人が集まって、黒い子供を追い出せっていろんな人が口々に言っていて」 「……ただ、あの屋敷で暮らすことになっただけでか?」 「はい。本当にそれだけです。私、この領地の出身ですらないので、早く帰してこいとか、縁起が悪いことを領主自らやるなんてどうかしているとか、そういう言葉、たくさん、たくさん、嫌になるくらい聞きました。旦那様も奥様も他の使用人の方々も、みんな私を庇ってくれました。あんな言葉に耳を貸さなくていい。悪いことなんてしていないんだから、堂々としていればいい。そういう優しい言葉をもらうたび、街の人々、あの屋敷の人たちを悪く言うようになっていきました。  ……私、私が痛い目に遭うより」  ニナは頬に手を当てる。倒れてしまうくらいの勢いで打たれたのだ、今も痛みは引いていないのだろう。だがそれよりもと、少女は言う。 「あの人たちが私のせいであれこれ言われる方が、ずっと胸が痛むんです。だから私、大丈夫です。……このこと、秘密にしておいてくださいね。これも、ちょっと転んだことにしておいてくださいね」  それが、彼女にとって最善なのだという。頬を腫らしているくせに、どうしてそう言えるのか。 「……嫌じゃないの?」  そう訊ねずにはいられなかった。  スイは知っている。虐げられるのはつらいことだ。自分に責があると感じるときですら、心が壊れていくのを感じた。ましてや、それが自分にまったく責任がないものなら、その痛みはいったどれほど深く、強いものになるのか。……つらくなどないなんてことは、きっとないということだけはわかってしまった。 「ちょっと、大変なときもありますけど、でも、大丈夫です。あの人たちが元気でいてくれるなら、私はそれだけで充分ですもの!」  それは、おそらく彼女にとっての拠り所。唯一無二のその場所の変化は、下手を打てばその拠り所を失うことにもなりかねない。  スズは何も言わず、スイも何も言わなかった。当の本人がこれでいい、庇われることなど受け入れ難いと感じているのならば、それを覆すことなど、できるはずがなかった。
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