傷痕

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君枝は住まいの台所で昼食の支度をしていたのだが、その時、突然、電話のベルの音が部屋中に鳴り響いた。 東日本大震災の脅威は甚だしいものではあったものの、君枝の住まいは被害地区から少し離れた住宅街にあった為に、その被害からは逃れられたのではあるが、君枝の心に刻まれた傷痕は、その様な浅はかなモノでは無かった筈である。 ………………夫・周平の死。 今迄に当たり前の様に何時も傍らにいてくれた相手が唐突にして存在しなくなった時の感情を表現するには、現代に於ける人間の言葉では些かおぼつかないであろう。 その日、周平は、君枝との結婚記念日に贈るプレゼントと祝いの盃のシャンパンを買いに出かけた際に厄災と遭遇し、津波に因る荒れ狂う濁流に呑まれてしまい………。 周平は消息不明と断定されたものの、それでも、君枝は周平が何時の日にか生還するであろう事を祈りつつ、震災が去ってから後も何事も無かったかの様に暮らしていた訳ではあるのだが………。 最早、残された肉親は血を分けた一人息子の太一のみとなってしまった君枝。彼女は、電話の相手が太一であるとばかりに思ってしまい、慌てて受話器を手に取った。 「………もしもし、もしもし、太一かい?」 しかし、それは太一からのモノでは無く、電話の相手は太一の学生時代の友人であると、確かにそう名乗っていた。 電話の相手の男の名は、狩野 仁。太一の中学時代のクラスメイトのひとりで、現在は、東京都杉並区にある高円寺の町で弁護士事務所を開いていると言う………。 「………まあまあ。そんな御大層な方が、ウチの太一にどんな御用件ですの?………生憎、太一は上京しておりまして。」 狩野と名乗る男は、電話の向こう側で落ち着きのある冷ややかな口調で答えた。 「………太一君の御母様。大変申し上げ難い要件なのですが、落ち着いてお聞き頂けますか?」 「………………………………。」 君枝が聞かされた狩野からの話の内容は、こうである。都内では度重なる空き巣強盗事件が発生しており、その容疑者として、太一が警察に逮捕され、数日前から勾留されていると言うのである。 生憎、被害総額も少額だった為、保釈金を用意する事で、勾留期間を免除されるらしい。 「………と言う訳でして。太一君も非常に反省しておりますし、ワタクシと致しましても、友人として見捨てる事は出来ません。………保釈金の総額が300万。その半額の150をワタクシが何とか用意致します。申し訳ありませんが、残りを御母様に何とかして頂けないでしょうか?」 君枝は、その言葉を疑いもせず、狩野に言われるがままに、今迄に積み立てて来た現金を指定された口座に入金したものの………。
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