春雨傘(はるさめがさ)

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春雨傘(はるさめがさ)

 どこか愁いを帯びたような鈍色の夕空から、細かな雨がさらさらと静かに落ちてくる。三月というこの季節にしては温かく感じるしずくをてのひらに受けとめて、神谷那月(かみやなつき) は先程からもうずっと、おのれのなかに生じてはまた消えていくためらいにも似た気持ちに小さくため息を吐いた。  道すがら、たまたま目に入った古本屋の軒先に身を寄せて、傘の柄を握っていない方の手でボディバッグから卒業証書が入った筒を取り出す。高校生活三年間という決して短くはない時間が、このわずか百グラムにも満たない紙切れ一枚に集約されているのかと思うと、何とも心許ないような覚束なさが胸を軋ませた。  目的地のマンションまでは、ここからいくばくもない。思い切って一歩踏み出せば、あとはそのままの勢いにまかせて彼に会うこともできそうだった。  先程、これから訪ねることを携帯で知らせると、わずかな沈黙ののち、分かった、と久しぶりに聞く低い声が端的に応えて通話が切られた。愛想のなさは相変わらずだな、と苦笑して、それでも終話ボタンをタップするとき、かすかに指がふるえた。  いつまでもここに留まっていたいという怯懦を無理やり抑え付けるためにひとつ大きく息を吐き出すと、那月は雨がそぼ降る住宅街をわざと水を蹴立てて走り出す。これまでは裾が汚れることをつねに危惧しなければならなかったが構うものか。──どうせ、明日からはもう、この制服に袖を通すことは永遠にないのだから。  そうして、ようやくたどり着いた懐かしさを覚えるマンションの数歩手前でつと足が止まる。視線の向こう、ガラス張りのエントランスの支柱に半ば長身を預けるようにして、榛原閑(はいばらしずか)がぼんやりと雨に煙る空を見上げていた。
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