春雨傘(はるさめがさ)

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 雨の匂いがする腕のなかに那月を閉じ込めて、掠れた低い声が交換条件を突きつける。一度だけ、もう一度だけでいいから、とふだんは弱みなど見せたことのないこの男が、すがるように、もしくは祈るように。 「……だったら、俺も訊いてもいい?」  だから那月も、長いあいだ言葉にできなかったその問いをようやく口にする。耳朶に触れる吐息に、狂おしいほど響く心拍に、あの日と同じめまいにも似た衝動に、これ以上意識を攫われてしまわないうちに。 「──……何であのとき、俺にキスしたの?」  ──数か月前、いつもと変わらない放課後のはずだった。両親が共働きである閑のマンションを自習室にして、おのおのがそれぞれの受験勉強に励む。そうして、常日頃から睡魔に弱く、クラスメイトからひそかに『眠り姫』と称される那月が、いつも定席にしているソファで寝落ちては呆れ顔の閑にため息混じりに起こされる──それがお決まりのルーティンだった。  ──……榛原……?  だが、そのときは、ふと瞼を開いたら、思いがけずすぐ近くに怖いくらいに真摯な閑の瞳があって、一瞬だけ生じた沈黙のなかで視線が行き交った。そのあと、ゆっくりと降りてきた唇に、けれど那月は抗わなかった。むしろ、そうするのが当たり前のようにすら感じた。  ──那月。……那月。  頬を、首すじを、そして鎖骨のうえを滑る唇が、許しを請うように何度も那月を呼ぶ。ゆっくりと降りていく閑の髪に指を絡ませて、次々と押し寄せてくるさざ波めいた感覚に必死に耐えていると、その指先までをも捉えて口付けた閑がひどく切迫した声で那月に懇願した。
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