第1部 第1章 1. プロローグ

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ドイツに行ったあとはもう森野さんを思う余裕はなかった。新しい環境に慣れるのに時間のかかるタイプなのだ。苦しくも楽しい5年がほんとうに飛ぶように過ぎていった。重要なものとは言えなかったが、植生分野の学術誌にも論文がいくつか掲載され、先方の要望もあって、滞在は予定よりもさらに3年延び、最終的には8年に渡った。専門分野の違うわたしは発想も新鮮で、研究室にとってもいい刺激になっているらしかった。さほど目立った研究成果は上がらず、ときどき日本が恋しくはなったけれども、新たな分野への挑戦は勉強になったし、次のステップへの手応えも感じ始めていた。日本では苦手だったビールも、お気に入りの地ビールができた。ただ、ドイツという国は思っていたほどわたしには合わなかったようだ。いささかかっちりしすぎていた。滞在中に足を伸ばしたフランスやイタリアの方が食べ物も美味しいし、ずっと快適に感じられた。それでも人々は親切だ ったし、どこへ行ってもたいてい自分の下手な英語で通じたから、過ごしやすかったことは間違いない。 帰国する日が目前に迫った休日のことだった。親類や知人への土産でも買おうかと、惜しみ深い気持ちで街を歩いていた。夏の終わり際の涼しい日だった。歩き疲れて、客もまばらなやる気のなさそうなカフェにふらりと立ち寄った。テレビからは音楽のプロモーションビデオが垂れ流されていた。 次々と流される意味のない映像をぼんやりと眺めていたら、ある曲のビデオに釘付けになった。冒頭、ひたいの上がった男性歌手が、詩のような歌をドイツ語で歌い始める。その時はさして興味もなく、曲名もアーティスト名も見なかった。ところが最初の数小節をすぎると、場面が変わり、バックの演奏が始まる。そして、ひとりの若い女性ダンサーが観客のいない舞台で踊り始めるのだ。本格的なバレエだった。曲のプロモーションなのか彼女のプロモーションなのかわからないほど、そのダンサーの踊りが前面に出された内容だった。撮影もカメラ好きには分かるような凝ったもので、スタッフの力の入れようも伝わってきた。     
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