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 それから達夫が由紀子のカフエーに立ち寄ることは無くなった。由紀子の思いを内に秘めがちな性格のために錯覚していた恋の好調が、単なる己の思い込みであったことに気づかされたからであった。  しかしそれは綺麗さっぱりと諦めのついたものでは決してなかった。達夫は毎晩由紀子の面影のために悶え苦しみ、そのたびに己のなんと弱いことかを痛感せられた。かつて達夫を奮い立たせたあの甘美な思いが哀れにも失われた今、由紀子への思慕がもたらすものはもはや苦しみだけであった。学友たちは達夫のことを心配してはいたが、一方で、もはや実直で社交的な質の失われた達夫に対し、皆次第に冷淡になってもいった。かつて外に向かっていたその誠実さと饒舌さは、もはや内に向かって彼の精神を鬱屈させ荒廃させていた。  幸か不幸か、にわかに事情が慌ただしくなったと家から呼び出しがあり、達夫は休学して実家に戻らなければならなくなった。それであの失恋の日からちょうど二週の後に、達夫は下宿を出て帰途に就いたのであった。  明くる日達夫は例の下人を介して一通の手紙を受け取った。中の便箋によってやや膨らんだ茶封筒には差出人の名はなくただか細い字で達夫の家の住所が宛先として記されているのみであった。もしやと思い咄嗟に封を切ったが中にもやはり書き手の名は残されておらなかった。しかし読み進めてゆくと果たしてそれは由紀子の筆によるものであるようだった。そこには以下のように記されていた。
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