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兼子 清雅(かねこ きよまさ)
月が、顔を出さない。
彼が現れるのは、決まって、そんな夜だ。
他にも、気温とか湿度とか、彼が現れるのには、いろいろと条件がある。それと、一番大事な、『目的のもの』かもしれないものが揃わないと、彼は出てきてくれないから、俺はいつも様々なデータを分析して、必死に彼が現れる日を特定する。今のところ、外れたことは、ない。愛のチカラだね。
彼が今日現れる予定なのは、とある小さな美術館。
俺自身が勝手に入って家宅侵入にならないよう、念のため、信濃川さんに特別許可はもらってるけど、たぶん必要はない気がする。女装までして、もらった許可なんだけどね。まぁ、念には念をだから、仕方がない。
玄関の鍵を、確認する。
なんの変哲も、工夫もない、普通の鍵。こんなの、ちょっとピッキングの技術があれば、簡単に開けられる。防犯カメラも何もなくて、セキュリティーなんて何も考えていない。こんな小さなところに、盗みにくるやつなんて、いないって思ってるんだろうな。
俺は、美術館から少し距離を取って、玄関を見張ることにした。中から人の気配はしないけど、たぶん、彼はいる。彼は、気配を消せるみたいだけど、俺の愛は、気配だってなんだって超えるんだから。彼は、きっと、いる。
しばらくすると、音もなく玄関が開いた。中から、黒いジーンズに、黒いシャツを着た彼が出てきた。
胸が、トクンっ、と高鳴る。はぁ...、と、自然とため息が漏れた。
彼は、玄関をしっかりと閉めたことを確認すると、そのまま、スタスタと歩き出した。俺は、足音を潜めて、彼に近付く。
見馴れはしないけれど、忘れられない大きな背中。身長は俺の方が高いけど、それでも、十分に高い身長と、がっちりとした体格。はぁ...、とまた漏れそうなため息は、意図的に飲み込んだ。
足音を立てず、息も殺して近付いて、彼の背中は、もう、目の前。俺は少し深呼吸する。心の準備を整えると、すっと、背後から、彼を抱きすくめた。
...つもりだったのに。
「...また、君?」
目の前だけど、俺から少し距離を取ったところで、彼は、呆れたように俺を見てる。
彼の瞳の中に、俺だけが映ってる。そう思った瞬間、背筋になんとも言えない快感が走り抜けた。
「...会いたかったよ、『怪盗』さん。」
「...僕は、あんまり会いたくなかったな。」
はぁ、とため息混じりに彼は言う。
それでも、俺はちゃんと知ってる。本当は彼は、俺に見つからないように立ち去ることなんて、簡単にできる。だけど、そうしないのは、少なからず、俺と顔を合わせたいからだ。自惚れじゃない。だって、俺を見る彼の瞳は今日も、飴色に輝いている。マスクなのか化粧なのか、顔は毎回変わるから、素顔はわからないけれど、瞳の輝きは変わらない。
「『怪盗』さん、今日も収穫はないの?」
「...それは、君に言うことじゃないでしょ。」
彼はやっぱりため息混じりに言うけれど、俺は知ってる。もし、本当に『目的のもの』を手にしていたら、彼は俺に構うことなんてしないで、さっさと退散するって。ここでこうして俺と話しているってことは、今回の獲物も、『目的のもの』ではなかったのだろう。
「そうなんだ。じゃあさ、これから俺とデートしてよ。」
「...なんで。」
彼がみなまで言う前に、俺はさっと、彼と距離を詰める。唇が触れそうな距離まで近付いて、一瞬、彼は目を見開いた。飴色の目の中に、俺の顔だけが映る。けど、すぐにまた、同じくらい、距離を空けられてしまう。
「デートなんて、できるわけないでしょ。僕は、フクロノネズミになんて、ならないよ。」
じゃあね、と言うようにさらりと彼が手を振る。と、その途端、彼の姿は、すっと、煙のように消えてしまった。
「...あーぁ。また、逃げられちゃった。」
でも、俺はちゃんと知ってる。彼だって本当は、俺のことを少なからず想ってくれているはずだ。だって、彼はデートは『できない』って言った。『しない』じゃなくて、『できない』って。
「俺が警察官じゃなければ、デートしてくれたのかな。」
ありえないことを呟いて、俺は、少しだけ微笑んだ。
ありえない。だって、俺は警察官だからこそ、彼と出会うことができたんだから。
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