Op.1-1 出会いと始まり

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「ラブレター……ですか?」 「ああ。何だ、君は知らずに僕の前で弾いていたのか?」  ポカンとした私を見て、コトリ、とカップをテーブルに置いた彼は驚いたような表情を浮かべる。 「……あはははは?」 「…まぁ、いい。その曲は『誰か』を想って書かれた曲だ。弾いていて伝わってこないか?」 「え、じゃあ恭一(きょういち)先輩もこの曲弾いたんですか?」  首を傾げた自分に「うん」と私が恭一先輩、と呼んだ彼は楽しそうな顔をしながら答えた。  広い室内に置かれ丁寧に磨かれたグランドピアノ、それと無造作に書類が広がる大きなテーブル。  そのすぐ傍にあるテーブルには、今は彼と私の分のマグカップと、彼が使うノートパソコンが置かれている。 「フレデリック・ショパン作ワルツ第13番 変ニ長調。君が今弾いていたのは、Op.70のNo.3だろう?指の運びなら、今も身体で覚えているし」  ツ、と先輩の指先が楽譜の右上あたりを指さし、私はその先輩の指をじい、と見つめたあと、ちら、と楽譜へと視線を戻し口を開く。 「合ってます…」 「この曲の冒頭、どうやって弾くか。それが書いてあるはずだが、何と書いてある?」 「dolce e legato.ドルチェ?ドルチェって…あのイタリアのデザートとかの?」 「ドルチェ レガート。まずそれは、日本語で言うと発想記号と呼ぶものだ」 「発想記号?」 「そう。具体的に、こうしてこうやって弾いて、という具体的に細かく演奏方法を指示するのではなく、抽象的に、この曲のイメージを伝えてる、というと分かりやすいかもしれない。全体を通し総合的に、作曲者の意図とかを示してる。例えば、今回のその発想記号、dolce e legato.君は、dolceを見てデザートを連想したんだろ?」 「はい。曲もメロディも、そんな感じだなぁ、って思いました」  ドルチェと聞いて真っ先に思い浮かんだのはイタリアの甘いお菓子だ。  この曲は、ティラミスとか、アッフォガートとか、何となく、甘いけれど、ほろ苦い。そういうものをイメージした。  そういえば、今日のデザートは、何だろう。 「うん。ドルチェって言葉は君が知ってるデザートと同じだ。発想記号としては、柔らかに、甘く。次の発想記号のeは、そして、とか、ーとともに、とか、しかしとか。今回の意味だと、そして、だと僕は思う。レガートはなめらかに。全部合わせると、柔らかに甘く、そして、なめらかに奏でる」  大体の曲には、この記号が示されているのは、知っている。何度も目にしてきた。けれど、ピアノ教室に通っていた頃は、特に気にしていなかったのだが、この言葉だけで、こんな風に読めるのか。  まじまじとスコアを見る私に、恭一先輩は「逆に君は凄いな」と驚いた声を零す。 「え、何がですか?」 「作者の意図を、楽譜の記号じゃなくて、メロディラインだけで捉えていたのだろう?まぁ、レッスンだと先生が教えてくるかも知れないが」 「……先輩、褒められてる気がしません」 「まぁ、事実あまり褒めてない。一部は褒めてる」 「やっぱり!!」  ケロッと白状した先輩に、抗議の声をあげれば「当たり前だ」と逆に窘められる。 「スコアに書いてあるものは、作者の曲に対する想いやら、考えかただ。音を拾うだけじゃなくて、どういう風に弾いていくのかを自分で、読み取って、考えて弾くからこそ、面白いし、人の心に響く」 「心に響く……って、先輩、私、素人なんですけど……」 「じゃあ、君は弾くだけで楽しいから、他の人にどう聞こえてるかなんて知らない、どうでもいい?」  そう聞かれて、言葉に詰まる。  私はただ、弾くだけで楽しかった。  そもそも自分が弾いている間の、他の人のことなんて、考えたこともない。 「……他の人にどう聞こえてるか、なんて考えたこともないです」 「じゃあ、君は、演奏会を聞きに行って、感動したことはあるか?」 「あ、」 「あ?」 「………あります」  その問いかけに、あります、と。それ、貴方の演奏です、と言いかけて、止めた。 「その時、どう思った?」  コト、と先輩がカップを手に取った音が、響く。 「えっと……やっぱり凄いなぁ……。プロだなぁ……上手いなぁ…と」 「他には?」 「他に?」 「うん。他。それ以外」  ジ、と見てくる瞳に耐えきれずに、視線を反らし、白と黒が並ぶ鍵盤を見つめる。  あの時は、まるで、音が雪みたい降ってくるように感じた。  柔らかに、時々、激しく。  音が、降っては消えて、手のひらに、身体に、全身に積もった音に、心が揺さぶられるような感覚。  泣きそうで、泣けない。  そんな音。 「私には、出来ないなぁ、って」 「諦めただけ?」 「諦めただけじゃないですよ?上手くなりたいなぁ。同じように弾いてみたいなぁ!って思いました。でも」 「でも?」 「私には、出来ないな、って、自覚しちゃったんですよ」  そう言って、ポン、と触れたのは、ソの音。  私が触れても、弾いても、ただの音でしか、ない。 「……自覚、ねえ」  先輩の、声が、ソ、の音のように、聞こえた気がした。  珈琲を焙煎する香ばしい匂いがほんの少し鼻先をくすぐる。  此処は、恭一先輩が経営するカフェの敷地奥にある一角。  だが、ピアノがあるこのスペースはカフェとしての提供ではなく、恭一先輩個人のスペースだ。  珈琲の良い香りを漂わせるカフェの運営をしているのは先輩の親友の上田(うえだ)壮志(そうし)さんで、恭一先輩とは違い学生時代あまり関わりがなかったが、一応、私の先輩でもある。  都会というにはほど遠く、限界集落というにはまだ早く。適度に自然とビル群が交わるこの街は私と、恭一先輩、上田さんの出身地で、高校卒業と同時にこの街を出た私は、都内の大学へ進学、そのまま都内で就職をしたものの、心身ともに適応できずに会社を辞め、地元へと戻ってきた。  地元での生活に、癒やされ、精神的に余裕も出てきたころ、このカフェの店員募集の求人に出会い、応募をしたところ、そこにいた恭一先輩に「なんだ、アルバイトって、西宮(にしみや)じゃん」「あれ、恭ちゃん知り合い?」「うん、後輩」と顔見知りの恭一先輩がそこに居たことで、私はそのまま採用。そして現在に至る。 「人は、自分の限界を知ると、怖くて進めないものです」  ポツリ、と呟いた私の頭をよぎるのは、学生時代までずっと続けていた頃のピアノのレッスンのこと。  小さい頃は、お祖母ちゃんや、お祖父ちゃんが、上手ね、って言ってくれる、両親が褒めてくれる。それが嬉しくて、ずっと練習をしていた。  レッスンの教材が変わる度に、ピアノ教室の人たちが、「茉優(まゆ)ちゃんは、進みが早いね。先生も期待してるしねぇ」とか「このまま行ったら、ーーさんみたいになるかもしれないわねぇ」とか、そんな風に言ってくれるのが嬉しくて、期待に答えたくて、一生懸命練習してきた。  でも、上手くなれなかった。  私の上達の限界は、とっくの昔に迎えている。 「そうじゃないんだけどなぁ」と、先生に言われる度に、直せなくて、たまに先生が自由時間に弾いているのを聞いて、同じようになりたくても、なれなくて。  何時間も、何時間も、練習したけれど、私は、先生みたくなれなかった。  ピアノを続けていた理由も、次第に見つからなくなって。  ただ弾ければいいかな、とそう思うようになった。  だから、私はレッスンに行くのを止めたのだ。  先生が、私にはもう期待していないのだと、分かったから。  毎回、レッスンの終わりに、先生のがっかりした顔を見るのが、怖くなった。  きゅ、と手を握りしめた私に、先輩が「なぁ、西宮」と小さな声で呼びかける。 「限界を知る、其処が自分の頂点だ、それ以上は無理だ、と気づくことは、悪いことじゃないと思う。小さい頃は音大に行きたかっただろうし、プロにもなりたかったんだろう?」  その問いかけに、小さな頃に描いていた夢を思い返して、こくり、と頷く。 「まぁ、そりゃ音大生は死ぬ気で努力しても試験に受からなきゃ大学には入れないし、そのためには一定の技量もいる。でもなぁ。音大出身じゃなくても、心に響く演奏はあると、僕は思ってる」 「心……」 「作者の思いを、自分で読み取って、自分の中に落とし込んで、それを紡ぐ。一生懸命弾く音も嫌いじゃないが、不特定多数が感動する音って、結局は、思いがメロディに乗ってるかどうかなんじゃないかって、僕は思ってるよ」  そう言って、シ、の音を奏でた恭一先輩の音は、とても優しい音だった。
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