Op.1-2 ショパンの初恋

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Op.1-2 ショパンの初恋

「思いを乗せるって、そんなこと言われても……」  小さくそう呟いて、開かれたまま進んでいない楽譜と、先輩の横顔を見やれば、なんだか妙に楽しそうな表情をして楽譜を見ている。  中学生の時、初めて先輩を見かけた時も、こんな表情をしていた気がする。  どうしてだかこの人の楽しそうな表情を見ると、関係の無いはずの自分まで楽しい気分になってくる。  ふふ、と思わず小さく笑い声をこぼせば、懐かしくも苦いレッスンの思い出に少し重くなっていた胸の中が少しだけ軽くなっていく。 「何一人で笑ってんだ?」  私の笑い声に気がついたらしい先輩が、ほんの少し眉を潜めながら訝しげな表情で私を見やる。  この表情、昔も見たなぁ、と一人思い出しながらふふ、とまた小さく笑えば「ついに壊れたか……」とため息をつきながら先輩がふるふると首を横に振る。 「ちょっと、ひどくないですか?!」 「いや? 別に」 「ひど?!」  しれっと言い放った先輩に軽いショックを受けながら言えば、クックッ、と今度は先輩が笑い声をこぼす。 「君は、壮志(そうし)と同じだな」  そう言った表情がなんだか少しだけ寂しそうに見えて「恭一(きょういち)先輩?」と声をかけるものの、笑顔しか返してこなかった先輩に、私はそれ以上のことを聞けなかった。 「先輩」 「ん?」 「さっき、先輩が、この曲をラブレターだ、って言ってたじゃないですか」 「ああ、言ったな」  ポロポロとメロディラインを拾っていた先輩の指先がピタリと止まる。 「なんでこれがラブレターなんですか?」  ちら、と見上げた先の先輩の髪がさらりと動く。 「ただ単にショパンが甘い曲が作りたかっただけ、とかじゃないんですか?」 「この曲は、ちょっと違う」  私の問いかけに答えながら、「例えば、このあたり」と先輩が空けておいたイスの半分に腰かけて、鍵盤へと指をおろす。  楽譜通りの音色に、スムーズに繋がる音。  右手のメロディラインを追いかける左手の伴奏が、春先のような、なんだか少しラッキーなことがあって、心が小さく踊るような表情をしているように聞こえる。  先輩の演奏に、思いを乗せる、と言っていた先輩の言葉が、胸にストン、と落ちてきた気がする。 「ま、本人に聞いたわけでもないが、当時19歳だったショパン少年の恋心が、この曲にも含まれていたのは、確かなことだと、譜面を読む度に僕は思う」 「ショパンの……恋、ですか」  演奏をやめ、先輩が立ち上がった椅子が、キシ、と小さな音を立てる。 「彼の人生の一度目の、恋」 「一度目……ということは初恋?」 「そう。でも、どれだけ彼女への情熱を甘く甘く熱くしたためることは出来ても、彼は、彼女へ想いを伝えられなかった」  静かにそう言った恭一先輩の声は、微かに部屋に残っていた甘い旋律の余韻に低く、切なく重なる。  ー「先輩も、そんな恋、したんですか?」  そんな事を聞きたくなるような恭一先輩の視線は、私を通り越して、ピアノへと注がれている。 「……先輩は」 「うん?」 「恭一先輩は、ピアノに恋してるみたい、ですね」  ふふ、と小さく笑いながら言えば、「うるせー」と少し耳を紅くした恭一先輩の短い言葉が返ってくる。 「先輩、続きは?」 「続き?」 「ショパンの初恋の話ですよ!」 「ああ。それか。なんだ、聞きたいのか?」 「はい」 「ネット探せばすぐ出てくるぞ?」 「えー、先輩の口から聞きたい」 「ったく、しょうがねぇなぁ」  そう言った恭一先輩が、私の隣に立つ。 「座ります?」 「いや、いい」 「先輩?」  そっと、鍵盤に触れた先輩の指に、力がこもる。  ポン、と奏でた音は、F、つまりファの1音だけ。 「この曲は、ショパンの亡くなった後、友人のユリアン・フォンタナによって、陽の光を浴びたんだ。自分が死んだら、スコアは全て廃棄してくれ、とショパンは伝えていたが、ショパンが亡くなった後、この曲の草稿が見つかり、出版を決めた。ユリアンは親しい友人だったから、ショパンがこの曲が、どんな想いで作ったかを、ショパン本人から聞いていた」 「へぇぇ……」  そう話しながら、恭一先輩の指が、メロディラインを紡いでいく。 「数あるワルツの中でも、この第13番は、誰かと一緒に弾くデュオとして弾くことにも向いているかもしれないな。まぁ、ソロ曲だから、あえて分けて弾こうなんてあまりしないだろうが」  デュオ。  その言葉に、いや、その言葉だけではなく、目の前で軽やかに動く指に、紡ぎ出される音に我慢が出来なくなって、先輩のメロディラインを追いかけるように、左手で譜面の音をなぞる。  やはり、先輩と違って私の指運びは、拙い。けれど先輩はそんなこと微塵も気にしていないようで、むしろ楽しそうな表情を浮かべた。 「ショパンが、ワルツ第13番を作曲したのは、1829年。当時、彼は19歳。同じワルシャワ音楽院に通うコンスタンティア・グワドコフスカに、恋をした」 「……恋?」 「音はずしたぞ」 「あっ、わっ」  恋、と言った先輩の言葉が、何故だがさっきとは違った響きに聞こえて思わず聞き返すと同時に私の指が止まる。  ちら、と私を見た先輩は、ふっ、と小さく笑ったあと、また口を開く。 「この曲はな、曲を書いた当時19歳だったショパンが恋心を寄せたコンスタンティア・グワドコフスカに捧げた、と言われている」 「わぁお……情熱的ですね。でも、それにしては……ワルツなんですね?なんか、こう……そういう誰かのために曲を作りましたーって、バラードのイメージがあるんですけど」  そう言って、楽譜を見た私に、「この部分」と先輩が楽譜の一部を指さす。 「音が増えて、音の重なりも、音量もあがる。彼女を慕う静かな、けれど少年期特有の熱い恋心とか、変わっていくメロディに、言葉ではうまく言い表せないような、やるせなさを含んだ情熱が混ぜこまれているだろ」  甘く続くメロディラインを、先輩の指がなぞっていく。  甘く、切ない。けれど、やるせない。  そう読み解かれてみれば確かに、胸をきゅ、と締め付けるような、そんな音たちだと、先輩の流れる指先を見つめながら思った。 「なんか……アレですよね。この曲って、聞いた時のイメージと違って、なかなかに難しいですよね。特にこのへん。同じ感じが続いてるから、普通に弾くと重たくなるというか……バランスが悪いというか……」 「まぁな。でも、17、18小節の間と、19、20小節の間じゃ雰囲気が全然違うだろ?」 「……まぁ、上がっていくところと、和音ですし」 「うん、まあ、そうだな」 「でも、先輩。それで言ったら、次のこの、えっと21から23? も雰囲気が違うし、急にトリルまで入るし」 「ここは、思い切って音が大きくなってもいいと思うけど」 「え、そうなんですか?」 「見せ場だろ。音と一緒に、ショパンの気持ちが加速した感じがする。僕個人の感想は、だけどな」 「なるほど」  滑らかに動く音とは反対に、ゆっくりと動く先輩の視線が、なんだかアンバランスで、少しショパンもあわあわしたのかな、なんて考える。 「ちなみに、この中間部。右手の上のラインはメロディラインを、下の音は伴奏だな。オブリガートみたいな感じか? んで、左手は低く甘く追いかけてて」  オブリガードみたいな?  先輩の口から出てきた言葉に、動きが止まる。 「それと、ここは、ショパンが、」 「ちょ、ちょっと待ってください。先輩、オブリガード? って何? 何で急にイタリア語?」  思わずバッ、と見上げた私に、先輩の指が止まる。 「オブリガー、ト。ドじゃない。トだ。obligato」 「その……オブリガートってなんですか?」 「……は?」  私の問いかけに、それだけを言った先輩の視線が冷たい。  この人、こんなにも表情豊かだっただろうか。中学の時はもっとクールな印象だったような気がするが。冷ややかな視線を受けそんな事を考えるものの、いや待て私、今はそこじゃない。  オブリガート? え、なんで急にイタリア語のありがとう? いやいやいや、そんなわけがない。 「……君、それ本気で言ってるのか?」 「……この状況で冗談言えると思います?」 「思わない」  バッサリ、と切って捨てる答えに「ですよねー」と小さな声で答えれば、「これで冗談を言えていたら僕は尊敬する」と言う冗談だか本気だか分からない先輩の答えに、はは、と小さく乾いた笑いを浮かべる。 「オブリガートというのは、対旋律とも、助奏ともいう。主旋律、メロディラインに対しての補佐、というか対抗役というか」 「へえぇ……」 「言いようによっては、君の今のへえぇ、もオブリガートといえばオブリガートだな」 「え、どういうこと?」  思わず首を傾げた私に、先輩は「例えば」と言ってジ、と私を見たあと静かに口を開く。 「例えば、今からしばらく、君一人だけで話し続けろ、と言われたらどうする?」 「え、先輩は?」 「居る。だが反応を返さないし、喋らない。ただ居るだけ」 「え、じゃあなんでいるんですか?」 「例えばの話だろうが」 「あ、はい」 「で、どう思う?」  じい、と見てくる先輩の言った言葉を、ほんの少しだけ想像してみる。  今からしばらく、先輩はいるけど、無反応。  ちょっと、嫌かも。  ジ、と見てくる先輩を見返しながらそう考えるものの、ふと、その答えに違和感が頭の中を横切っていく。  いや、待て。  この人、反応がない時、結構ある。曲が出来て書き込んでる時とか、夢中でピアノ弾いてる時とか、たまに何だかよく分からないオブジェを作っている時、話しかけても先輩の反応がないことが多い。 「先輩って、わりと、いや、結構な頻度で話しかけても無反応ってありますよね」 「……そうか?」 「そうですよ!」 「ふむ」  先輩は驚いたあと、何度か「いつだ?」等と小さく呟いたり、首を傾げたりしている。  どうやら今までのはずっと無自覚だったらしい。 「では、質問を変えよう。例えばオーケストラのメンバーが全員同じメロディラインしか奏でなかったら、君はどう思う?」 「え、それは……ちょっと味気ない、というか勿体無いというか……」 「ある意味では圧巻かもしれない。けれど、重く低く奏でるずっしりとした重さの低音も欲しい、主旋律の対になる層も欲しい、だろう?」 「はい。あ」  あ、と小さく零した私を見て、先輩が「そういうことだよ」とふっ、と小さく笑った。
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