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Op.1-3 初恋は綺麗なまま
「ちなみに、ありがとう、って意味のオブリガードはイタリア語じゃなくて、ポルトガル語だぞ、西宮」
「え? え?!」
「イタリア語でありがとうはグラッツェだろ」
「あ……確かに!」
確かに、テレビとかでイタリアの人がグラッツェって言ってるのを見る。
ポンッと手を叩きながら納得していれば、先輩は笑う。
「ま、とりあえずポルトガル語とイタリア語は置いといて。だ。この曲の、この中間部あたりだけどな。ショパンが友人に書いた手紙の中でも触れているんだけどな。ここだ、ここ」
そう言った先輩が楽譜を指差す。
「左手の変ト長調の8分音符がゆるやかなスケールが奏でられる。ぶわーっとあがるのではなく、緩やかに」
「ゆるやかに……ですか」
「そうだ。例えてみるなら……そうだな。容器から逆さまにして皿にだした、ちょっと固めのプリンと、柔らかめのプリンの傾斜ぐらいの差だな」
「……先輩、なんでプリン」
「……君、僕のプリン食っただろ」
「食べてませッ」
ぶん、と首を横に振って顔を背けたはずなのに、むぐという声が出そうな勢いで先輩の手に両頬を押し潰される。
「僕のプリン」
「すみまふぇん。つい」
「壮志のプリン、楽しみにしてたんだからな」
そんなにプリン、食べたかったのか。
思わず冷蔵庫を覗いて叫んでいたであろう先輩を想像して笑い声が溢れる。
「んふっ」
「……キモい」
いつまでも人の頬を挟んだままの先輩が、私を見て割と真顔でド直球に伝えてくる。
ショックを受けながら反論を試みるものの、「ひおいほあひお」とまぁ、何を言っているのだか伝わるわけもなく。
そんな私を見て、先輩は私の頬から手を離し、顔をそむけてぶふっ、と笑いを吹きこぼした。
「ちょ、やっぱりひどくないですか?!」
「……いや別に?」
「ちょっと顔がいいからってぇぇぇ! 腹立つぅぅー!」
「ま、イケメンだからな、俺」
ベシッ、と軽く私のおでこのあたりを叩く先輩が、ニヤリと意地悪そうに口元を歪めて笑う。
「ぐぬぬぬぬ……」
「あ、そういえばな。この曲、最高でEs、日本語だとミ♭の変ホ音のまであがるぞ」
「へええ……あ、ここ、左手の対旋律のあとに右手がまたうっとりしちゃいそうなメロディラインがポコっと入るんですね?」
ぺら、とめくった譜面の先を眺めて見つけたメロディラインを鼻歌で追いかければ「半音ずれてるぞお前」と先輩の厳しい指摘が入る。
鼻歌なのに。
「鼻歌すら自由に歌えないだなんて……」
「ずれて歌うお前が悪い。考えてみろよ。例えばそうだな……かえるの歌が半音ずれてたら気持ち悪いだろ」
先輩に言われ、軽く数音を口ずさんでやめた。
「可愛らしいイメージではなくなりますね……」
これはアマガエルじゃない。毒ガエルっぽい。
「まあ、そんなところだ。と、話がずれたな。なんだっけ」
「えっと……ここです、この左手の変ト長調のあたり」
「ああ。僕個人としての見解にしか過ぎないが、これとそれにこのメロディラインは、グワドコフスカを表したんじゃないかな」
先輩の指先が、音符をなぞっていく。
「え、じゃあ、ここの仮オブリガートは……自分、ってことですか?」
「あくまでも、僕の考えだからな。受け取り方は人それぞれだ。 このあたりの部分がな、ショパンがグワドコフスカに対する想いがじわじわと高まっても、彼女は気が付かない。もしも気がついていたとしても、自分に振り向くことはない。けれど、自分の想いは募っていく。そんな風に僕には聞こえる」
「トリルとかが入るのは、恋に恋しちゃってる系?」
「どうだろうな。けど」
「けど?」
問いかけた私に、先輩はな表情で、静かに笑ったあと、鍵盤へと指をおろす。
「恋愛の悩みなんて、今も昔も変わらないんじゃないか?」
そう言って、先輩が紡いだおとは、低音からのゆるやかなスケール。
さっきのトリルのところは、笑った初恋の彼女の笑い声とかなんだろうか。
それとも、彼女を見て、跳ねたショパンの心臓の音?
先輩が奏でる指先のメロディに、私が思い描いた、初恋に悩むショパンの姿が、見えた気がする。
メロディラインの高音の華やかな和音や、流れるような音たちが、彼女に対する想いが募るショパンを表す一方で、変わらない低音が、彼と彼女の現状を表している、ような。
「ショパンの初恋って、叶わなかった、んですよね?」
音を奏でる先輩に、鍵盤を動く先輩の指先を見ながら言えば、「ああ」と先輩が呟く。
「一説によると、だけど。グワドコフスカは、彼を覚えていなかったんじゃないか、って言われてる」
「覚えていない、ですか?」
「ああ。まあ、学園内の天使だとか、彼女を巡って争いが起きていたくらいだから、いまでいうアイドルだったんだろ。そんなに人気があったらファン一人一人の顔なんて覚えていないだろうし」
「でも、ショパンだって有名だったんじゃ」
「まだ学生の頃は、そこまでの有名じゃないな」
「え、でも、何かしらのアピールをしたんじゃないんですか?」
「……多分してない」
「え、してないの?」
「文献を見る限りだとな」
「してないんだ」
「西宮もさっき自分で言ってただろ。恋に恋しちゃってる系って」
「え、アレはそうとは知らず」
「ま、でもそうみたいだしな」
止まっていた音を再開させる先輩の口元は、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいる。
「恋焦がれて、一人で彼女を思い浮かべて、でも言えなくて泣いてるみたい」
最後の音を奏でた先輩に、思ったことを伝えれば、「だな」と先輩も答える。
「ショパンのグワドコフスカに対するどうにも出来なかった想いとか、自分がどれほど想っても叶わなかったショパンの一方通行の想いがじわじわと静かに音とともに高めに高めて、結局は、曲に閉じ込めた綺麗なままの、って感じだな」
ポス、と立ち上がりがてらに、私の頭に手を置いた先輩を見れば、先輩はすっかりいつもの顔に戻っている。
こんなに切ない曲を弾いたのに。
こんなに切ない曲を書いたのに。
想いを伝えないまま。
彼女の記憶にも残らないまま。
それでも、大切にしてきた、ショパンの初めての恋か。
「ねえ、先輩」
「あ? なんだ?」
温くなってしまったコーヒーを飲みながら、先輩が振り向く。
「ショパンのワルツって、結構な数ありますよね? でもその、誰でしたっけ、コンスタンさん?」
「コンスタンティア・グワドコフスカ」
「そう!そのコンスタンティアさんに向けて書いたのは、この13番だけなんですか?」
「もうひとつはワルツじゃなくて、ピアノ協奏曲第2番ヘ短調Op.21だ。こっちも有名だな」
「へえええ……、ね、先輩!」
「そっちまで聞きたいなら、まずは壮志からプリンを貰ってくることが第一条件」
「えええ、まだプリンのこと根に持ってるんですかぁ?」
椅子から足をだらんと投げ出しながら、先輩に言えば、「当たり前だ」と先輩の不機嫌そうな声が聞こえる。
「楽しみにしてたものが無くなってれば、そりゃ根に持つだろ」
「でも先輩、こないだ私のアップルパイ食べたでしょー?」
「それとこれとは話が別」
「横暴!!」
「何とでも言え。俺はコーヒーを貰ってくる」
「あ、逃げた!!」
べっ、と舌をつきだしながら、先輩が部屋を出ていく。
そんな先輩の背中を少しのあいだ眺めたあと、一人、譜面へと向き直る。
届かなかった想いをこめたこの曲に、
先輩がこめた想いはなんだったのか。
そんな事を考えながら、鍵盤に指をおろした。
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