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Op.1-5 壮志と恭一
「先輩でもツェルニー弾くんですか?」
「時々な」
「へぇぇ」
コーヒー、とだけ言いに来た恭一先輩に、店長こと上田先輩は笑ってこたえ、何故だが私が運ばせられる今日この頃。
カフェの裏にあるピアノ部屋から聞こえた耳馴染みのある音の羅列に、先輩の手が止まると同時に声をかける。
「つまらなくないですか? ツェルニーって」
この部屋のキッチンワゴンには、もはやコーヒーが置かれることは殆どなく、楽譜や筆記用具、おかしなど、ごった煮のような状態になっている。
「そうか?」
そんな状況のコキッチンワゴンを横目に、ピアノの近くに置かれたテーブルに、いつものようにコーヒーをことり、と置く。
私の問いかけに答えつつも、先輩の手は、相変わらず音を出し続けている。
「それに、先輩、もう基礎練習なんて必要ないじゃないですか」
プロとして、デビューして、あんなに沢山の舞台経験まで積んでいるのに。
好きな曲を、好きなように弾ける技量があるのに。
そんな言葉が口から零れそうになるものの、寸でのところで、口の中に溶けて消える。
「……先輩?」
なんでそんな顔、してるんですか?
何かを、必死に堪えるような、顔。
鍵盤においた先輩の指先が、細かく震えている。
「……せんぱ」
「やばい。基礎練習しすぎて指つりそう」
「……は?」
緊迫した雰囲気は一変して、ヘラッと笑いながらこっちを見た恭一先輩に、「……は?」と思わず低い声がでる。
その声に、恭一先輩は、パチと瞬きをしたあと、口角をぐいぃとつりあげていく。
「え、あ、何なに? 大好きな先輩を心配してくれちゃった感じ? うっそ、マジで?」
にやにやにやにや。
にまにまにまにま。
そんな表現がぴったりしっくりくる顔をしながら、私を見た恭一先輩の頭に、固く握りしめた拳を振り下ろしたくなったのは、もはや言うまでもない。
「……それにしても……なんでこの人って、こういう練習曲ばっかり書いたんですかねぇ?」
右へ左へ、鍵盤上を指を満遍なく動かしながらひたすらに移動したり。
毎週のレッスンのたびに、課題を出されていたなぁ、なんて思いながら、教本の置かれた棚から数冊を取り出してページをめくる。
「そういえば……」
「ん?」
「これ、30番とか40番とか、あるじゃないですか?」
「ああ、あるね」
「昔、そのことで同じピアノ教室で、別の先生に習ってるおかあさんから、うちの子はもう何番まで進んでるんですのよー、って言われたことがあります……」
「……何それ?」
「なんでしょうね……いま考えれば謎マウントですよね」
「ま、世の中は色んな人間がいるしな」
ソラシド、と軽やかな指で音を奏でながら、先輩はつぶやく。
「あ!」
ぱらぱら、とページをめくりながら声をあげた私に、先輩は「うるさい」と即座に文句を言ってくる。
「先輩、先輩。私、この曲知ってる! 知ってるっていうか弾いたことある!」
ぐる、と振り向いて先輩にページを見せながら言えば、先輩はいつもと変わらずに「……ああ、それか」と答えてくれる。
「練習曲なのに、普通に綺麗なメロディの曲だな、って思ってた気がするんですよ。これ、よく弾いてましたもん。家で練習する時に」
「……ふむ。じゃあ、この辺とかも好きなんじゃないか?」
同じ40番代のやつだぞ、と呟いたあと、先輩がメロディを奏でていく。
「……それ、本当に練習曲ですか? この中に入ってますか?」
「入ってるよ。ページまでは覚えてないけど」
「うっそだぁ」
ただひたすらに訓練か、っていう曲の記憶が強い。
強いけど、この曲はなんというか。
「違いますね、他の曲と」
「んー、まぁ、違うと思うなら違うし、同じだと思うなら同じだろ」
「答えになってないー」
「別にそこの答えはいらんだろ」
先輩の答えにむうう、と口を尖らせれば、私の顔を見た先輩がふはっ、と笑い声を零す。
「変わんないな、お前」
「先輩?」
くっくっくっ、と笑う先輩の声は心地よかったけれど。
どうしてか先輩が、ほんの一瞬、目を細める。
なんだろう。
先輩の様子に思わずもう一度、「先輩?」と声をかけるものの、「んー?」といつもの先輩の生返事だ。
気のせいか。
その小さな違和感は、ぺら、と先輩がめくった紙の擦れる音に、溶けて消えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「――う、きょう」
ゆさゆさ、とほんの少し揺れる肩と、自分を呼ぶ声に、意識が浮上する。
「……そう、し」
「昼の薬、まだ飲んでないだろ」
「……ああ、うん」
どうやら鍵盤蓋をおろし、そのままそこでうたた寝をしていたらしい。
困ったように静かに笑いながら起こしてくれた壮志に、礼を告げれば、「お礼は薬のんでからね」と幼馴染は笑う。
「どれくらい寝てた?」
「たぶん、西宮さんがカフェのほうに戻ってきてから音が聞こえてなかったから30分も経ってないよ」
「そうか」
すまん、と言いながら身体を起こせば、人の顔をじっ、と見た壮志が顔をしかめる。
「恭、けさ体温測った?」
「おう」
そう頷いた瞬間、ぴた、と額に手があてられる。
ひやりとして冷たい。
洗い物でもしていたのか。
そんなことを思っていれば、「きょうちゃん」と壮志の声に現実に引き戻される。
「ちゃん、っておまえ」
もういい年の大人だろ。
そう返しかけた言葉が、目に入る壮志の表情で止まる。
「そんな泣きそうな顔すんなって」
「泣きそうじゃないし」
「じゃあ泣く顔?」
「それ同じ意味だろ」
「まあね」
壮志の声に、くつくつと笑えば、冷たかった手が離れていく。
熱あがってるのか。
ぼんやりと考えていれば、数秒前に離れたはずの手が、自分の額をぺちん、と軽く叩く。
「恭ちゃんは」
いつもそうだ。
小さく呟いた壮志の声は、気づかないフリをするには近すぎる。
それでも。
「今日の夕飯、煮込みうどんにしない?」
へらり、と笑いながら言う自分を、勘の良い幼馴染は、ため息をひとつ吐き出したあと、「はいはい」と答え踵をかえす。
「そう」
「きょうちゃん」
「……なに」
「ちゃんと冷えピタ貼って寝ること。いい?」
ビシィ、と部屋の入口でこっちを向きながら言う壮志に、瞬きを繰り返せば、ふふ、と壮志が静かに笑う。
「西宮さんにバレたくないんだろ?」
「…………ん」
なんの言葉も返せない自分に、「しょうがないなぁ」と困ったように、壮志が笑う。
その表情に、つきり、と胸の奥に痛みが走る。
「きょうちゃん」
「……だから、きょうちゃん呼びは」
「オレにとっては、いつでも、いくつになっても、恭一はきょうちゃんだし、きょうちゃんにそうちゃんって呼ばれるオレなんだよ」
「……壮志」
「ちゃんと寝ててね」
ひら、と片手を振って部屋を出た壮志の背を見送る。
「あーあ」
力が入らない指先に、諦めきれない諦めを、ため息に練り込んで吐き出す。
こんなはずじゃなかった。
なんて言うほどに、将来を考えていたわけでもないけど。
流石にこれは想像してないよなぁ。
まだ残る鍵盤蓋の自分の体温に、苦笑いを零して寝室へと向かった。
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