小百合との暮らし

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 ちょうどそのとき、船の汽笛がボーっと港一杯に鳴り響いた。その汽笛に、昔を思い出した。あれは、大阪から九州へ渡ったカーフェリーの旅だった。なんともいえない哀愁に満ちた旅情を誘う音だった。小百合は同じ船旅でも違う場面をイメージしたようで、「『タイタニック』のポーズをやりたい」とせがんできた。周囲に人が少なかったので、仕方ないなと呟いて、妻の腰を後ろ手で支えた。小百合は体を前傾し、手を水平に広げた。映画公開時の懐かしさが蘇った。同時にいま現在の気恥ずかしさも感じた。 「もうええやろ?」  やめるよう促した。小百合は束の間のヒロイン気取りを味わい、満足した様子だった。目がキラキラと光り、恍惚としていた。 「クリスマスのころにまた来ましょうよ。ライトアップされた建物やイルミネーションの夜景も楽しみたいわ」  いつにも増して明るく、弾んだ声の妻は上機嫌だった。昼の三時過ぎにカフェに入り、お茶休憩をした。小百合はカプチーノを飲み、オレはお決まりのホットコーヒーを飲んだ。コーヒーの芳醇な香りを楽しんでいると、小百合は鞄からガラケーを取り出して、パシャパシャと撮り始めた。カプチーノの表面に浮かんだ模様のラテアートを撮っていた。よく見ると、動物の顔ように見えた。なんや、これはと訊いた。クマちゃんよと小百合は恵比須顔で応じた。あとで写真を見せてもらうと、確かにかわいい、アニメに出てきそうなクマの顔のラテアートだった。小百合は携帯の写真データを探して、こんなのもあるのよ、と別のも見せてくれた。ひとの似顔絵風のラテアートだった。泡を崩して飲むのがもったいない気がした。ゆっくりお茶の時間を過ごし、車で帰宅した。アパート前の駐車場にグレーの愛車のヴィッツを停め、キーロックで施錠した。階段を上り、二〇三号室の鍵を開けた。荷物を部屋に置き、お互いに部屋着に着替えた。  しばらくすると日が傾き出し、夕方になった。近所からだろうか、めそめそ泣いては甲高い、突き刺すような高音が響く。泣き続ける子どもの声だった。幼児というのは駄々をこねて泣き出すと手が付けられないのは、オレも自分の子で体感していた。 「ひどい泣きっぷりやな」  料理を作り始めた小百合に聞こえるように大声で話した。 「うん。子どもやから」  多忙さゆえの相槌なのか、それとも本音なのか。どちらとも取れる答だった。
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