小百合との暮らし

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小百合との暮らし

 夜明け前、早くに目が覚め、興奮していた。競馬場にいる夢を見た。騎手の顔が、なぜだか小百合にすり替わっていた。馬の番号は暗くて識別できぬまま、小百合と馬は全速力でゴール前を通過し、他の馬と一緒になって疾走した。よくみると、その馬は半人半馬のケンタウロスの出で立ちだった。ケンタウロスの顔だけが小百合だった。彼女の顔をした馬はこちらを一瞥し、にんまりと笑った。 そこで目が開いた。実に奇妙な夢だった。オレは手と背中にびっしり汗をかいていた。今日は桜花賞の開催日。先週のGI大阪杯は、三連複はもちろん、馬連もだめだった。キタサンブラックがオッズ通り一着で勝利した。正直、二番人気のマカヒキ、サトノクラウンを狙ったり、ミッキーロケットを穴馬にしたりしてはみたが、二着馬を外した。結果は単勝のみ当たってマイナスに沈んだ。  桜花賞に賭けようと気持ちを切り替え、リベンジに燃えていた。昨年は、雨風に吹かれ桜とともに馬券も散るはかない日曜となった。この日が来るのを今や遅しと待ちわびていた。トータルでプラスになったら、配当金は貯金して次の競馬に回すか、焼肉でも食いに行こう。光熱費に回すなんてばかばかしいことはしない。せっかくのご褒美なのだから。  結果は五つ買った単勝の八番人気馬が一着に入り見事に的中した。読みの良さでトータル三万三千円のプラスになり、翌日、当たり馬券を払い戻して、晩飯に妻の小百合と焼肉を食べに出掛けた。 「当たって、本当に良かったね」  小百合がビールの入ったグラスをこつんとぶつけてくる。 「真ん中ぐらいの人気馬が来た。すごいことが起きたで」  オレは店内の客にも聞こえるぐらい大声で自慢し、旨そうに焼けたカルビを咀嚼して、ビールとともに喉元に流し込んだ。 「達夫さん、余ったお金、競馬につぎ込むの?」 「半分は次のレースに回す。残りで好きなもんでも買うたらええ」 「やったー」  小百合は無邪気な声を出してはしゃぎ、こぢんまりした焼肉店の雰囲気を明るくした。  九時過ぎに店を出て、花見のためにわざわざ遠回りし公園で休憩した。他に数人の花見客が来ていた。夜桜が街灯にぼんやり照らされ、淡いピンクが紺青の夜空にくっきり浮かんで見えた。 「例年より遅めだけど、きれいね」 「ほんまにきれいや。風情がある」  満開の見頃を迎えた桜は、競馬で買った余勢もあってか、自分たちのためだけに咲き誇っているように映った。 「ええ夢、見られそうやな」  平凡な幸せを噛みしめて、ゆっくり家路を歩いた。散った花びらが道端にちらほらと落ちていて、遅く咲いた花が自分たちの幸せの遅さと重なるように感じられた。  オレは二年前に妻子と別れた。阪神青木駅から徒歩八分のアパートに暮らしていた。高架下のパチンコ屋の裏手に小さなスーパーがあり、そこから細い川を渡った西にある大きなスーパーで買い物をする。こちらのほうが安くて客も多い。  住宅地の一角の狭い路地にオレの住むアパートがあった。周囲を一軒家に囲まれ、申し訳なさそうに肩身を狭くして建っているが、陽当たりは良く、環境もいい。アパートには駐車場があり、奧に二階へ上がる階段があった。蒲鉾板を洗い表札にして、「寒山達夫 小百合」と書いて貼り付けた。  付近は、ありふれた住宅街や商店と立派なマンションが混在していた。少し北へ歩き甲南方面の坂を上れば、前方に六甲山の眺望が開けてくる。住宅街に削りとられた六甲山は、広い通りに出ることで大きな顔を出し、新緑の映える季節には清々しい風を吹き下ろした。二階からの眺めは、近所のマンションが建て込み、あまりよくなかった。  築二二年の物件をネットで見つけて申し込んだ。二階建ての八戸のうち二件が空き家で、下見をしてここ二〇三号室に決めた。キッチン三帖、洋室六帖で家賃は四万五千円。家族と暮らしていた賃貸のマンションに比べれば、家賃は半額以下で独り者になったオレにはちょうどよかった。二人用の物件だったが、大家さんと話をして単身用として借りた。  職場は大阪の淀屋橋で、一時間以内で通えた。前より時間はかかるが、阪神沿線といえば下町情緒のある庶民の町で、オレの性分に合っていた。駅の北にはパチンコ店があり、いかつい兄ちゃんや金のなさそうなオジサンが出入りしている。自分も似たような人種で釣り合っていると思った。  十月から部屋に女を連れ込んで同居生活を始めた。大家さんに連絡し許可を得た代わりに、家賃と管理費が予想外に跳ね上がった。内縁関係になった女は渡辺小百合という名で三二だった。小さな百合という名前とは裏腹に、見た目は身長が図抜けて大きかった。真っ直ぐで明るい向日葵のような逞しさがあり、よく食べ、よく笑う。料理も上手で、冷蔵庫の残り物でパパッと一品をこしらえてしまうのに一〇分とかからない。その手際の良さを褒めると、二週間して弁当屋で働くようになった。以前はフリーターで、カフェの店員や衣料雑貨の販売員を仕事にしていたという。  小百合が来てくれたお陰で、連れだって外食に出かける機会が増え、手料理を食えるようにもなった。とても助かった。駅周辺は、焼肉店や焼き鳥店が多かった。それらの店に入って飲んでも、小百合はなかなかの酒豪で、ちっとも酔わなかった。  今朝も小百合は何かをこしらえていた。独身のあいだはパンと牛乳ですませていたが、小百合が来てから特製の野菜スープが加わった。 「今日はどんなスープを食えるんや?」  食卓の椅子に腰かけ、オレは訊ねた。 「お楽しみよ」  俎板で残り野菜を刻む音が小気味よく響く。ちょうど朝の七時だ。オレはAPP放送にチャンネルを合わせ、タイガースのオープン戦のダイジェストを観ていた。 「昨年は中谷と大山が活躍したのに広島に負けよった。投手の奮起と少ない点を守り切る野球やで、優勝するには。若手の活躍も期待せな」 「そうなのね」  台所から小百合のどうでもええやん、みたいな気のない相槌が聞こえてきた。と同時に、スープを煮込むいい香りと、トーストの焼けたにおいがしてきた。腹がグルグルと鳴った。 「タイガースの楽しみは開幕してからの二か月限定。優勝はでけへん。毎年のことや。優勝を信じとるのは大阪から尼崎あたりのオジサン、オバはん連中だけや」  阪神タイガースと競馬ファンのオレは、春が二重に楽しみだった。スポーツ紙を喫茶店で見開いては、アカンアカンと嘆くおっちゃん。そう評された。阪神もアカンし、競馬も勝てんかった。アカンと思うたび、本当にアカンのは阪神や馬でなく、自分自身やとわかっていた。 「醒めとんねんね」 「毎年やから醒めるで。若虎はだいたいスポーツ紙の一面を飾っては消えていく。生き残って何年も活躍する選手なんて稀や。希少価値の恐竜みたいなもんや」 「恐竜ねぇ」 「それを発掘しようと、他球団と争奪戦を繰り広げるのがドラフト会議や」 「そやけど、達夫さん、野球以外にも競馬が趣味やないの?」 「野球は現実、競馬はロマン」 「どういうこと?」 「野球は毎日の勝敗が楽しみで、競馬は外れるとわかっとって、この馬や、ちゅうて夢を託す。だから、現実とロマン」 「なんや、半分わかったような」  小百合は火を止め、微笑みながら台所からこちらへやってきた。盆の上に載った、白い二つのカップから、これまた白い湯気が上がっている。野菜の煮込まれた、いいにおいが鼻孔をくすぐった。 「ギャンブルにはまらんだけでもええがな。日がな一日パチンコですってみぃ。あっというまに稼ぎも貯金もなくなるで」 「そんな生活しとったんや」 「昔な。そやかて、女房が子ども連れて出てって、寂しいだけの毎日や。どないして過ごせっちゅうねん。賑やかにするのが精神的に楽やん」  小百合は相槌を打つ。 「今はもう賭け事はせえへん。競馬だけ。それも大きなレース限定で、額も三千円ぐらいや」 「達夫さんはちゃんと自制できとるとこが偉いわ」 「オレもそう思う」  自分でいいながら鼻を高くした。トーストを咀嚼し、コップに注がれた牛乳をゴクリと飲んだ。猫舌のオレはスープがそろそろ冷めた頃かなと思い、そーっと飲んでみた。 「今日もスープが旨い。野菜の味がよう染みとるな」 「なにが入っとるかわかる?」 「キャベツに椎茸、ショウガ、あと……この赤いのは何や?」 「余ったミニトマト。それらをポトフ風にコンソメでクツクツ煮たの」 「体の大きい割に、やることはまめやな」 「体のサイズとは関係ないわ」  少し拗ねた小百合は、オレの食べる顔を眺めながら、スープと買ってきたクロワッサンにカフェオレを飲み食いし始めた。  しばらく、レースのカーテン越しに昇る朝日が織りなす光と影の中で、平和な朝のひとときをずっと感じていたかった。職場は昼に仕出し弁当を取らないので、各自が持参するか、外へ食べに行くしかない。小百合は弁当を作ってくれるのでありがたかった。心の中でいつも感謝していた。  壁に掛けた水色の時計にちらりと目をやると短針が8の数字を指していた。そろそろ出かける時刻だ。支度に追われ、残り一〇分が迫っていた。 「小百合。しあわせか」  脈絡のない突然の問いかけに、彼女は目を丸くして視線を左右に泳がせた。 「しあわせ……。だけど、どうして?」 「なんとなく訊きたくなっただけや」  オレは、ただ願っていた。この瞬間に感じた幸せが何年も続いてほしい、と。小百合は色っぽい目つきで、何かをねだるような顔をした。それに気づいて照れると、敏感なのかすぐさま顔を元に戻し、こういった。 「達夫さんは、どうしてアタシのことを好いてくれたん?」 「どうしてかなぁ。なにが気に入ったと思う?」 「ずるいわ。教えてくれへんの? アタシ大柄だし、なんのとりえもないよ」 「まあ、ええやん。気ぃつかへんでも充分にええとこがあんねんて」  そういうと椅子から立ち上がった。食べ終わった皿とカップを流しに持っていき軽く水を出してゆすいだ。食卓に戻ると、小百合は遠慮がちに目を伏せ、いった。 「アタシも競馬を観に行ってええ?」 「かまへんで。一緒に仁川行くか」 「行きたいわ」  約束通り、週末になると、大阪杯と桜花賞に小百合を連れていった。桜花賞の日は花曇りで、少し寒かった。阪神競馬場のある仁川へは電車で向かった。付近が混雑するのはしかたなかった。レース場に着いたときは一一時を回っていた。すでに第4レース前の時間帯で、パドックを見学に行った。馬を間近に見て、小百合は興奮していた。馬の毛の色や張り、艶などが本当にわかった気がする、といった。お昼はファストフードコーナーでカレーライスを食べた。  一階のメインスタンドへ行くと、偶然にもアパートの隣人を見かけ、声を掛けた。三〇代のがっちりした体格の男で、名をアツシといった。彼とはいつの間にか親しくなった。三人でワイワイいいながら、競馬を観戦した。アツシは元西原大のラガーマンらしかった。小百合は第11レースで、GI競走用のファンファーレを初めて生で聞いた。 「楽団の生演奏に心が震えたわ。当たればいいのに、って願うと感動も倍増するわね」  彼女は嬉しそうに笑った。そのレースで見事に一着が的中し、小百合の手を取りアツシと肩を組んで快哉を叫んだ。  小百合が町のいろんな場所へ一人で行けるようになったのは、青木駅から少しばかし歩いた住宅街の通り一帯を、薄桃色の花水木がきれいに埋め尽くした頃だった。やっと町に馴染んできたようだった。逆のいい方をすれば、小百合の持つ色が町並みに溶け込んだ、といっていいのかもしれない。  小百合が来て部屋の景色が一変した。汚かった部屋は片付けられ、食卓はそれ相応のおかずが並んだ。ある日は、カレイの煮付け、小松菜のゴマ汚し、レンコンの金平、高野豆腐、リンゴだった。別の日は、サバの味噌カツ、シーザーサラダ、豆腐の白和え、キウイだった。どちらにも、好物の納豆パックを付け足してくれた。それまではというと、スーパーの惣菜や弁当中心だった。刺身に野菜炒め、味噌汁を作ることもあった。けれど、栄養学的に偏った食事なのは承知していた。そもそも果物を摂らなかった。  いまは快眠、快便で仕事に精を出し、昼は小百合の手弁当が楽しみだった。パートナーを得ると、こうも生活に張りがでるのかと思った。毎日起きるのが楽しかった。食卓の向こうに相手がいて一緒に食事をとるのは、前妻以来長かったような気がした。  最初の妻の博美は自己中心的で、相手に合わすのがとにかく嫌いだった。こちらが和食派なのを知っていて、一人でトーストにサラダを食べていた。しかもパートが十時で、八時過ぎにならないと起きてこなかった。我慢すべきだとは分かっていたものの、すれ違いが生じた末、博美は子どもを連れて家を出ていった。独身に戻り、職場では憐れまれた。寂しい毎日がオレの体をいたぶった。  小百合を口説こうと思ったのは、パチンコ屋で見かけた新人で、笑顔が素敵だったからだ。ただそれだけの理由で休みの日をしつこく訊きだし、ドライブに誘った。もちろん彼女も、どういう意味なのかはわかった上で、姿を見せたはずだ。  九月から付き合いが始まり、一か月後には同居していた。離婚経験が一度あるのはすぐ話した。今度はその経験で学んだことを活かして、二度とパートナーに嫌な思いをさせまいと努力した。その様子を褒められ、いい流れができて交際が軌道に乗り出した。正月に帰省し互いの親にも引き合わせ、ちゃんとしているのなら当人たちの自由意思に任せましょう、と承諾を得て婚姻届を出した。式は挙げてなかった。子どもが授かり、子育てがうまくいった時点で式を挙げてもいいわ。彼女は控えめにそういった。  小百合は体の大きな割に繊細な神経の持ち主だった。彼女の趣味で、天井から二個のS字フックを用いて小さなエアプランツを吊り下げていた。パイナップルの仲間でティランジアというらしい。プラスチックもどきの透明ケース二個、ハンギングバスケット二個にちょこんと収まっていた。ときどき霧吹きで葉に水をかけている姿を見かけた。葉の緑が鮮やかで、白一色の殺風景な部屋が明るさを増した。床に敷いた木目シートと相まって、お洒落な美容室と勘違いしそうだった。  皐月賞は、小百合が熱を出し看病に付き添ったので、馬券を買うどころではなくなった。 「季節外れのインフルエンザなんて、アタシらしいわね」  小百合は寝床に伏しながら、苦しそうに小声を絞り出した。 「無理に喋らんでええ。ゆっくりしとけ」  オレは額に当てた濡れタオルを交換し、顔色を窺った。 「ごめんね、達夫さん。楽しみを奪って」 「余計なこと考えんな。オレは、他人やないのに気を遣うヤツがいちばん嫌なんや」  少し腹を立てた自分の了見の狭さに辟易しながら、本当は小百合の気遣いが嬉しかった。洟水を啜る妻の鼻にちり紙をあてがってやった。鼻声で喋るのが不憫だった。小百合は天井を向いたまま、細くて白い指をオレの手の甲に重ねた。  鼻声で思い出したが、初めて小百合の胸を目にしたときも、彼女は少し鼻を悪くしていた。ベッドから体を起こし伸びをした小百合の、朝の光を浴びた着衣のない胸を見たときは感動すら覚えた。実に滑らかな曲線美に見えた。あまりの美しさに、長崎出張で買った「桃角煮饅」が頭をよぎった。艶といい、張り具合といい、申し分のない胸だった。透き通るような肌は、窓から射し込むオレンジ色の光と調和し、自然な色を醸していた。  またいつか、長崎の新中華街を訪れてみたくなった。それまでは三宮の南京町で我慢しようと苦笑した。中国の旧正月にあたる「春節祭」の頃に足を伸ばそうかと訊ねたら、美味しいものは病みつきになるのよね、と小百合は声を弾ませた。何を食べたがっているのかはあえて問わなかった。  ゴマ団子、タピオカ入りミルクティー、ちまき、かき氷、中華饅、小籠包など、甘味から小腹を満たす食べ物まで、南京町に行けば食指の動きそうな飲茶が、店頭にデーンと並んで目についた。  昔、売り子の掛け声に押され、ついつい財布を出す真似をして引っ込めたことがあった。「どうしてですか」とこちらの反応ぶりに戸惑いの色を見せるのが面白かった。横で博美が、「そんな紛らわしいことしたらアカンやろ」と脇腹をつねった。 「そやかて、細かい銭、あれへんもん」  それは嘘だった。とにかく、若い店員をからかうのは自重した。店員のみならず、博美にまで嫌な目つきをされ、いたずらっ子が親に叱られたときのようにばつが悪くなった。  きょうも気持ちのいい朝がはじまり、味噌のいい香りが漂ってきた。ラジオをつけてニュースを一四分間聴いた。  小百合が、「納豆を切らしたわ」と奥からいった。 「別になくてもええ」  オレは答えた。納豆を食べるのはオレだけだ。わざわざ好みのメーカーの納豆を買ってきてもらっていた。好物なので、朝食に並ばないのはいささか残念だが、先週まで病床に伏せていた妻に完璧を求めるのは酷だった。 「神戸にでも出かけるか」  珍しく、今朝は和食になった。安かった、という鯵の干物の焼けるにおいに鼻をひくひくさせながら、提案してみた。 「達夫さんさえよければ。アタシ、特に予定ないし」  二人して神戸のハーバーランドに出掛けた。ウミエという商業施設で服などの買い物をして、定食屋でランチを食べた。映画を観よう、と小百合はいったが、いざ近くまで行くと掲示板に目ぼしい映画がなく、観るのを諦めた。橋を渡ってモザイクのデッキから神戸港を眺めた。 「船がいくつか動いているわね」 「小さいのはタグボートや。大きな船を引っ張る。沖に浮かんでいる大きいのは貨物船かな。それとも、外国へ行く客船かもしれん」 「素敵ね。一度でいいから、船旅をして外国の港を巡ってみたいわ」  小百合が食い入るように見つめてきた。 「ロマンチックやな。けど、金かかるでぇ」  うっかり夢を壊すような言葉を口走ってしまった。 「わかっとるよ、それぐらい。いってみただけ。夢や、夢」  小百合はオレの顔から港の方へと視線を転じた。  ちょうどそのとき、船の汽笛がボーっと港いっぱいに鳴り響いた。その汽笛に、昔を思い出した。あれは大阪から九州へ渡ったカーフェリーの旅だった。なんともいえない哀愁に満ちた旅情を誘う音だった。  小百合は、同じ船旅でも違う場面をイメージしたようで、 「『タイタニック』のポーズをやりたい」  とせがんできた。周囲に人が少なかったので、しかたないな、と呟き腰を後ろ手で支えた。小百合は体を前傾し手を水平に広げた。映画公開時の懐かしさが蘇る。同時にいまの気恥ずかしさも感じた。 「もうええやろ?」  やめるよう促した。小百合は束の間のヒロイン気取りを味わい、満足した様子だった。目がキラキラ光り、恍惚としていた。 「クリスマスのころにまた来ましょうよ。ライトアップされた建物やイルミネーションの夜景も楽しみたいわ」  いつにも増して明るく弾んだ声で、喉を鳴らした。  昼の三時過ぎにカフェに入り、休憩をとった。小百合はカプチーノを、オレはお決まりのホットコーヒーを頼んだ。コーヒーの芳醇な香りを楽しんでいると、小百合はかばんからガラケーを取り出し、パシャパシャと撮り始めた。カプチーノの表面に浮かんだラテアートをカメラに収めている。模様をよく見ると動物の顔のようだ。なんやこれは、と訊いた。熊ちゃんよ、と小百合は恵比須顔で応じた。あとで写真を見せてもらうと、確かにかわいくて、アニメに出てきそうな熊のラテアートだった。小百合は携帯の写真データを探し、こんなのもあるのよ、と別の写真を見せてくれた。ひとの似顔絵風のラテアートだった。泡を崩して飲むのがもったいない気がした。  ゆっくりお茶の時間を過ごし、車で帰宅した。アパート前の駐車場にグレーのヴィッツを停め、キーロックで施錠した。階段を上り、二〇三号室の鍵を開けた。荷物を部屋に置き、互いに部屋着に着替えた。  しばらくすると日が傾き出し、夕方になった。近所からだろうか、甲高く突き刺すような音が響いてきた。子どもの泣き声だった。幼児というのは駄々をこね、火のついたように泣き出すと手が付けられない。前妻の子で体感していた。 「ひどい泣きっぷりやな」  料理を作り始めた小百合に聞こえるよう、大声で話した。 「しかたないわよ。子どもやから」  多忙さゆえの相槌なのか、それとも本音か。どちらともとれる答だった。 「子どもは、遊ぶのと泣くのが仕事みたいなもんやからな」  それとなく呟くと、こんどは返事がなかった。いつの間にか、幼児は泣き止んでいた。  子どもの泣くのはわかるが、前妻の子は泣き止むまでが長かった。妻は最初こそ叱るのだが、そのうち呆れて放っておく。母親に放置され、何も状況が変わらないのを子どもが認知するまで、子は何度でも同じことを繰り返した。聞き分けの悪い息子だとは思ったが、幼児だからみんなそうだろうと思った。  甘やかすわけにもいかず、そうかといって厳しく叱るでもなく持て余していたのを、博美は腹立たしく感じたのだろう。あるとき、子育てを巡ってけんかをした。以来、たびたび躾や教育で対立し、隙間ができた。その頃からすれ違いを覚えた。それが離婚に至った原因の一つに違いない。一方の小百合は鷹揚としていて、神経質でない点は前妻と真逆だった。  桜が散り、すぐに五月になった。ゴールデンウィークに町内で祭りがあった。小百合と車で遠出をしていて、どんなものかは知らなかった。出掛けた日は半袖でもいいほど気温が上昇し、暑いくらいだった。小百合は大きいサイズの濃紺のワンピースに白のロングカーディガンを羽織っていた。  翌日は青木でゆっくり寛いだ。近くの公園は遊具に群がる子どもで賑わっていた。紫や黄色のパンジー、赤紫色のサツキ、八重桜などきれいな花々が咲き誇り、新緑の樹木の葉は陽光に透け、気持ちいいほどに青々と茂っていた。  近くを流れる住吉川に降りて散歩すると、川のせせらぎが静かで、町の雑音をすべて消してくれた。ジョギングする人、散歩する人、水遊びする子どもらが集い、川べりのすぐ上を六甲ライナーが走る。洗練された地区と下町風情が残る地区が入り混じっていた。芦屋と神戸の中間は、芦屋よりの神戸と位置づけられ、住民の「ええとこ意識」は高かった。 「ここは物価が安いし、芦屋や神戸に近くて環境もいい。ええ場所に引っ越しできて良かったわね」  小百合は嬉しそうな顔をした。二人で肩を並べ、住吉川を散策した。  駅の南を少し行くと、国道をくぐった先に、「サンシャインワーフ神戸」というモールがある。テナントの入り具合こそもうひとつだが、平日でも子どもや主婦層が買い物に来ていた。きょうは小百合を置いてひとりで出掛けてみた。前に一緒に来たことはあった。右がカー用品店、左が大きな広場で、小さな噴水もあった。平日だと親子連れは少ないが、子どもの声が明るく響く。  目の前には埠頭があり、港が見えた。前方に巨大な橋が架かっていた。上側が西行き、下側が東行きで、二本の白い鉄塔が雄大にそびえたち、斜めにケーブルを張って桁を支えていた。阪神淡路大震災以前は、大型船が出入りする神戸東の船着き場だったようだ。あとで人から聞いた。立派な橋に面した波止場は、広場と商業施設に模様替えした。  デッキの二階に上がると展望が開け、とても爽快だった。マクドナルド、びっくりドンキー、ラーメン屋、奥にはヤマダ電機があった。デッキから海を臨むと、神戸のハーバーランドのモザイクを連想させる。港町の面影はわずかに残るが、どことなくうら寂しい。海からの風が強く吹きつけ、髪の毛が激しくなびいた。モールの面積は大きいのに、人気の少ないのが少し残念な感じだった。  すこし北に上がると、コナミスポーツクラブがあった。小百合がその場にいたら、そこでダイエットでもしたら、といわれそうだった。さらに北上して国道二号線になり、ダイエー甲南店があった。二号線は道が広く、カーディーラーの店舗や大きな店、マンションなどが建ち並んでいた。町並みは開け、解放感と洗練された甲南の雰囲気が漂っていた。二人には、阪神沿線の方がよっぽど似合っている気がした。下町のにおいがするから。他人との距離感の近い方が居心地はいい。  小百合の服装は黒かネイビー系統の色が多かった。いつもロングスカートを履いていた。髪型はくせ毛をストレートにしているらしく、ときどき毛先が撥ねてき出すと美容室に行く。はっきり訊ねたことはないが、よく観察しているとそのようだった。彼女はオレの服装について口を挟まなかったが、髪が伸びてくると、そろそろ切りに行けば、と勧めてくれた。夫の身だしなみには最低限の気を配っていた。  小百合は、前の職場で一緒に働いた同僚と連絡をとっていない様子だった。いや、少しだけつながりはあったのかもしれない。ときどき携帯を指でしきりに押していた。  パートは日曜、木曜以外の週五日だ。一日四時間のシフト制で、昼間のかき入れ時に入った。二人か三人で回すので、近くの工場や工事現場のお兄さんが買いにきて、めちゃくちゃ忙しいと最初の頃はこぼしていた。弁当屋は初めてで、レジ打ちから習ったが、覚えがよかったのか一週間で慣れた、と小百合はこともなげにいった。そのうち調理の補助もやるようになり、サラダや漬け物、スパゲティの盛りつけも担当した。容器の種類を間違えて先輩主婦に叱られ、しゅんとすることもあったが、持ち前の明るさでなんとか乗り切れた、と笑った。  昼間の回転の速さに慣れてしまえば、調理も任されるようになった。揚げ物をしたり、炒め物を作ったりもしたらしい。家の献立を考える方がよっぽどたいへんだ、とは最近の彼女の口癖だ。  五月にもかかわらず曇りや雨の日も多く、アパートの中は部屋干しした洗濯物がやたらと目についた。オレは煙草を吸わないが、ときたまパチンコに行って帰ってくると、 「また煙草のにおいやわ。パチンコ行ったでしょ?」  と小百合は顔をしかめた。服に煙草のにおいが染み付くのだ。晩に帰宅しても洗濯物を干したままで、せっかくのインテリアが台なしだった。夜は暑くなり、窓を開けて寝ることも増えた。この季節になると、シャワーで風呂をすませても構わなくなった。  六月。雨で靴下が濡れ、通勤中や職場で不快なときを過ごすのが増えた。  気が滅入りそうになるので、日曜日になると小百合を連れ出し、映画を観に行った。そのとき観たのは邦画で、田舎を舞台にしたものだった。家族の日常を丹念に描き、しんみりしてどこかほのぼのとした安心感を抱いた。  小百合は仕事終わりに産婦人科に通うようになった。もしやと期待したが、赤ん坊の誕生ではなく、女特有の病気の方らしかった。男にはよくわからない分野であり、早く治ればええのにな、としか口添えできなかった。  七月はオレの、八月は小百合の誕生日だった。  オレのときは、二人で神戸に出掛けて食事をした。小百合はかばんからプレゼントを取り出した。ネクタイだった。柄は、水色地にクリーム色のドットをあしらったものだ。爽やかなイメージで夏にぴったり合い、いかにも彼女らしく気を利かせたプレゼントだった。  妻の誕生日には、ダイソンのコードレス掃除機を贈った。かなり高い買い物だった。 「これで掃除が楽になるだろう」 「嬉しい。これ、前からほしいと思っていたの」  小百合の声は上ずっていた。  夏は熱帯夜が連続して二〇日間も続き、毎晩寝苦しかった。クーラーはつけて寝たけれど、朝起きると寝間着代わりのティーシャツが汗でぐっしょり濡れていた。  子どものころはクーラーなどなく、窓を開けて扇風機をかけて寝ていたのを思い出した。寒山家は三兄弟であった。夜中に暑さで眠れず起きてトイレに立った弟の典生に、腹を思いきり踏んづけられた。翌朝、腹いせに頭を殴りつけ、泣かせてやった。二つ違いの兄の和馬ともよくけんかをした。学校から帰ってきて、冷蔵庫のプリンを見つけ二個食べた。一つは和馬の分だった。オレは知らないと意地を張り、お菓子を巡って取っ組み合った。和馬は、 「どうせ食うなら、典生の分を食えよ」  と筋の通らないことをいい、オレをどつき回した。  寒山一家は、もともと千里ニュータウンの府営住宅に居を構えていた。梅田へは電車一本で行けるので便利が良かった。いわゆる団地の賃貸物件で二部屋と台所があったのを覚えている。  団地で生まれ育ち、九つのときに兵庫県尼崎市のマンションに家族で引っ越した。千里の団地時代は、千里中央公園まで出掛けて暗くなるまで遊んだ。公園には遊具や芝生などがあった。和馬と兄の友人らの仲間に加えてもらい、夕飯まで隠れん坊をして過ごした。頭をひねって、見つけられないような場所に隠れ、誰も探しにこなくて心細くなり、半ベソをかいて家に帰った嫌な思い出があった。  小学校に上がってからは、公園で虫捕りに夢中になった。尼崎に移ってから小学四年生頃までは、武庫川で魚とりやサイクリングをして遊んだ記憶しかなかった。魚をとるのはけして上手な方ではなかった。そういえば、クラスに釣り名人の六角という名の少年がいた。彼は休みのたびに、父親と河口の海釣りに出掛けた。 「ハゼやガシラ、ハネにチヌを何匹も釣ったで」  週明けになると、いつもみんなの前で自慢していた。コツがあるらしく、他の友人がやっても釣果ゼロは珍しくなかった。クラスの男の担任は、 「釣りというのは悪魔の趣味だ。やらない方がいいんだよ」  子どもには意味不明の理屈をいった。  親父の一郎は山登りが好きで、オレの体力がつくのを待ちかねたように、六甲山へ登るぞと誘い、和馬と三人でよく登頂した。山登りの日は、母の和子が弁当を三人分こしらえ水筒と一緒に持たせてくれた。  前妻の博美は、会社員になって先輩の紹介で知り合った。向こうも会社員で、こちらは二七、博美が二三だった。彼女は短大卒の社会人三年目だった。オレの勤める会社の花見に姿を見せ、先輩の成瀬から、 「細くて美人だから、お前なら気に入るで」  とその場で紹介された。互いに挨拶と簡単な自己紹介を交わした。すぐに打ち解け、半年後には結婚した。さらに一年たち、博美は大地という男児を産んだ。彼女は成瀬の高校の後輩だという話だったが、どうやら昔に付き合っていたらしい。博美の話の端々に成瀬の影らしきものがちらついた。  実際のところ、オレに惚れてくれるならどうでもよかった。先輩の元カノでも嫌ではなかった。成瀬ほどイケメンでもなく、正直もてなかった。仕事も伸び悩んでいた。が、要領だけはよかった。人からは、いい加減とか、適当な人と揶揄されもした。金や仕事はいつか回ってくるもんだ、と意に介さなかった。  博美の性格に振り回されたのは、結婚してからだった。二五で大地を産み、最初からオレの育児への態度に不満を持っていたようだった。 「なんで私ばかりが辛い目を見るんよ」  恨めし気に睨んでは、仕事帰りに怒りをぶちまけた。物を投げてきたときもあった。私の苦労を分かってくれない夫と決めつけられていた。 「悩みがあるなら話し合おう」  こちらは相談に乗るつもりでいた。それでも妻の不満は爆発し、なかなか収まらなかった。 「落ち着いて休めるときがないんよ」  とも愚痴っていた。いま振り返れば、休みのときぐらいは家事を手伝い、育児にもっと協力してやったらよかったのにと後悔している。外で自由に飲み食いして帰る姿にも幻滅し、嫉妬を抱いていたようだ。夫婦でもめる時間が多くなり、息子の大地も子ども心に悟ったのか、ただ泣きわめくことでしか意思表示をできなくなっていた。その点は、オレにかなりの瑕疵があるのは認めざるを得なかった。  博美が大地を連れて西宮のコーポを出ていき、オレは青木に引っ越した。結果的に妻と息子を裏切ったけれど、入れ替わるようにして小百合と連れ添えた運命にはとても感謝していた。  十月になると、チャリティーバザーやフリマに出掛け、掘り出しものの服や食器を探して回った。見ているだけで楽しい、と小百合は上機嫌だった。  一一月は、地元の小さな祭りを見物しに行った。神輿は近くの公園から住宅街を練り歩き、法被姿の男衆が威勢よく掛け声を出して駅から甲南方面まで北上し、一周して公園に戻った。 「都会でも秋祭りのあるのが素敵ね。故郷を思い出して、とても懐かしいわ」  小百合はしきりに神輿や担ぎ手の写真をガラケーで撮っていた。 「来年、神輿を担いだろかいな」  半分冗談でいった。 「絶対よ。達夫さんの法被姿、きっと似合うわ」 小百合はニコッと笑った。
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