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忍び寄る影
「久しぶりだね、みんなで飲むの」
瑞奈は本格的に暗くなり始めた駅前の道を涼介と並んで歩いていた。
「そうだなあ。しばらくずっとバタバタしてたもんな」
十月に入って最初の金曜日。今日はメディア研究会のメンバーで集まってのオフィシャルな飲み会だった。九月の中盤に夏休みが終わって講義が再開されてからは、サークル活動に加えて講義への出席や準備等で皆慌ただしく過ごしていたため、こうしてサークル全体で顔を合わせる機会は久しぶりだった。
「久しぶりだからって、羽目は外し過ぎないでよね」
「それはまあ場の流れ次第だな」
「ちょっと」
涼介はお酒が好きだ。それもかなり。一度飲み出すと止まらず、天井知らずで気分が高まっていくタイプだ。飲み過ぎて前後不覚となり、すっかり記憶を失っていたということも稀にある。瑞奈はしばらく振りの全体で集まる飲み会で、涼介が弾け過ぎてしまわないかを懸念していた。
春の新歓から夏休み、初秋と越えて、メディア研究会に参加するメンバーはかなり固定化されていた。春こそ、メディア研究会という一見華やかな名前に釣られて入会を決めたミーハーな新入生がちらほらと顔を見せていたが、次第にこのサークルの活動への妥協のない姿勢を前に脱落していき、自然淘汰が進んだ。一年生で残ったのは、瑞奈や涼介、隼人の他に三人、計六人だけだ。入会者は三十人あまりだったことを考えると、どれだけこのサークルで求められるものが大きいかが分かる。
その分、淘汰を経て残ったメンバーたちの結びつきは必然的に強くなる。ハードな課題をともに手を取り合いながらこなしていくことで、メンバー間の絆は凡百のサークルよりも深く濃くなる。瑞奈はその一体感の強さがこのメディア研究会の好きなところの筆頭でもあった。だから飲み会も決してコールを振り合うなどの派手なものではないが、関係の濃さが良く分かるようなこしのある盛り上がりを見せる。
「前の、一学期のテストが終わった時の打ち上げ飲みの時もやばかったじゃん」
「あー、あったなそんなことも。どうやって帰ったか覚えてないもんな」
「もう、何かあってからじゃ遅いんだからね」
瑞奈は涼介の底抜けの明るさや前向きさが、たまに向こう見ずな危うさを感じさせて怖くなる。前だけを見て走り抜け、脆い床を踏み抜いて落下し、自分の視界から消えてしまいそうな危なっかしさ。本能的な直感に過ぎないが、自分の思い過ごしであってくれることを密かに願っている。涼介とはいつまでも一緒にいたいから。
「ん……」
瑞奈はちょうど通り過ぎた交差路を振り返り見た。男がこちらに視線を向けていた。その視線は異様に強く感じられた。
「ねえ、ちょっと……」
瑞奈は恐怖を感じ隣の涼介を見てその左腕を掴んだ。
「なに、どうした?」
「私たちを見てる人が……」
「え?」
「見て」
瑞奈は涼介の腕を掴んだまま再び後ろの交差路に振り向いた。
「あれ……」
そこには先ほどの男の姿はなかった。
「何だよ、誰もいないじゃん」
瑞奈の動きに釣られて涼介も同じ方向を振り向いたが、何も特段変わったもののない光景に拍子抜けしたような声を出した。
「あれ、さっきはいたのに」
「勘違いじゃないの」
涼介は全く気にする様子もなくすぐに前に視線を戻した。
「瑞奈は心配性だからなあ」
茶化すように言われ、瑞奈は「涼介が能天気過ぎるんだよ」と言い返した。
「その方が楽しくて良いじゃん」
涼介は自分に投げかけられた能天気という言葉そのままに笑った。瑞奈はこれ以上この話題を続けても無駄だな、と判断して押し黙った。
「お、あそこでしょ? 今日の飲みの店」
しばらく歩いた先で涼介が仰々しく光る店の看板を指差した。
「確かにあそこだね。以外と近かったね」
「久しぶりにみんなで酒飲めるの楽しみだな」
朗らかな顔で店の階段を上っていく涼介を、瑞奈は一歩後ろから心配げに見ながらついて行った。
メディア研究会の久しぶりの全体飲みは大きな盛り上がりを見せた。時間の有り余る大学生活の一夏を越えて、みなそれぞれに体験や思い出を重ねており話す話題には事欠かなかった。
隼人も大いにその場を楽しんだ。元々酒の場が好きなこともあったが、好きなサークルの面々とこうして久々に顔を合わせる今日という日を楽しみにしていたため、いつも以上に杯を重ねるペースが速くなった。二次会に行く頃にはすっかり気分は高揚し足元も軽くふらつき始めていた。それは他のメンバーも似たり寄ったりの状態だった。
例に漏れず、涼介も顔をいつも以上に赤らめてその場を楽しんでいるようだった。お互いに酒には強い方でよく一緒に飲みの場に向かう仲だが、そんな自分から見ても今日は調子が良いな、という印象だった。快活にはしゃぐ涼介を遠目に見て、心配そうな表情を滲ませる瑞奈、という構図も相変わらずで微笑ましくもあった。
終電の時間もあったため、二三時過ぎに二次会もお開きとなった。「じゃあ、今日はみんなありがとーな。気を付けて帰れよ」という代表の締めの言葉を、聞いているのかいないのか判然としない騒がしい状況の中で一応の合図として、皆がそれぞれの帰路に着き始めた。
「お疲れ、隼人。今日はサンキューな」
後ろから涼介が肩を組みながら言う。
「おう。お前も今日は結構飲んだみたいだな」
「いやあ、そんなことはねえよ。まだまだ飲み足りないくらい」
「はは、相変わらずだな」
「今度また、ぶち上げようぜ」
「そうだな」
そう冗談めかした言葉を交わして涼介とは別れた。テンションは高かったが、足取りもしっかりしており家まで帰るのには何も心配はなさそうだった。
だから、家に着いてもう深夜一時を回ろうかというタイミングで瑞奈から突然届いたラインを見た時には驚いた。
『遅くにごめんね。涼介と連絡がつながらなくて……家に帰ったらラインするって言ってたのに』
瑞奈の不安な内面がその文章から滲み出ていた。隼人はすぐに瑞奈に返信した。
『まじか。家帰ってすぐ寝落ちしたのかな、あいつ』
『それだったら良いんだけど……』
『おっけ、俺ちょっと確かめてくるわ』
隼人は涼介と近場に住んでいた。駅を挟んで向かい側に住んでおり、何度もお互いの家に遊びに行き合っている。万が一酔っぱらって家路の途中で寝込んだりしていても、駅から涼介の家に向かう道の途中で発見出来るだろうと思った。
『ごめん……ありがとね隼人くん』
『全然大丈夫。じゃあしばらく待っててくれ』
そう返信して、隼人はすぐに家を後にした。
閑静な住宅街のため、深夜の夜道は暗く静かで少し不気味だった。ぽつぽつと疎らに灯っている街灯を頼りに、まずは最寄りの駅を目指して速足で歩いていく。
駅を越え、これまでと反対方向にある涼介の家を目指して人気のないコンクリートの道の上を歩く。酒でもたらされた体温もすっかり抜け、秋の深まる季節の夜道は肌寒さを感じさせた。
「まったく、涼介のやつ」
隼人は多少の愚痴のこもった独り言を言いながら先を急いだ。
「あれ……」
しばらく進んだ先の歩道橋の階段を見上げた隼人は、思わず目を見開いた。
「おい、涼介!」
涼介が、階段の踊り場で仰向けになって倒れていた。隼人は急いで涼介の元に駆け寄った。
「涼介!」
涼介の顔は蒼白で、顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
隼人は涼介の名前を呼びながら顔を叩いたり身体を揺すったりと、意識を取り戻せるように必死で働きかけた。その甲斐あってか、しばらくして涼介が薄っすらと目を開けた。
「おい、大丈夫か……」
「ああ、隼人か」
涼介は苦しそうに顔をしかめながら周りをゆっくりと見渡した。
「あれ、ここどこだ……俺は何でここに……」
「知らねえよ、俺が聞きたいよ」
涼介は自分がなぜこの場所で倒れていたか全く身に覚えがなさそうだった。
ちょうどその時、コツ、コツ、と階段を上って来る足音が背後から聞こえて来た。不信に思った隼人は慌てて背後を振り向いた。
はっきりとこちらを見ながら階段を上って来たのは見覚えのない男だった。男は目が合うと軽くこちらに会釈をしてきた。
「ごめんなさい、迷惑かけましたね」
「え?」
事態の呑み込めない隼人に男は続けた。
「僕は黒川って言います。訳あって、宮田涼介君の家に通わせてもらってる臨床心理士です。涼介が家にいないってことで探しに出てたんだけど、見つかって良かった。涼介の大学のお友達?」
「はい……同じ専攻でサークルも一緒の、石崎隼人と言います」
「そうですか。こんな夜中に本当にごめんね」
黒川は隼人に物腰柔らかに声を掛けた。
「黒川さん……」
黒川が視界に入った涼介が小さく声に出す。
「探したぞ、涼介。まったく、酒飲み過ぎたらしいな。友達にも迷惑かけて」
「そっか……俺、飲み過ぎたのか……」
「馬鹿野郎。しばらくは禁酒だな」
「悪い……」
涼介は隼人と黒川に手を引かれて何とか立ち上がった。そのまま黒川が肩を貸す形で涼介の身体を支え、階段を降りた。
「ふう、とりあえずは歩けそうだな。こいつは、僕が責任持って連れて帰るので。本当にありがとうね」
涼介に肩を貸しながら黒川が言う。
「いえ、そんな。俺は何も」
「これからも何か迷惑掛けるかもしれないけど、仲良くしてやってね」
「はい、もちろんです」
「涼介は幸せもんだな。じゃあ、ここで失礼するね」
黒川が涼介を支えながら宮田家の方へ歩き出した。
「隼人、まじでありがとな」
ぐったりとした背中で、去り際に涼介が言葉を発した。
「おう。またな」
隼人はその背中に向かって投げ返す。
徐々に二人の背中が小さくなっていった。とりあえず大事には至らなかったことで、隼人は安堵の息を吐いた。
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