死神の影

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死神の影

 およそ大多数の人々が経験することのない出来事を告げられたのは、あまりにも唐突だった。  いつも通りに予定されていたはずの木曜日最後の英語の授業。東京都立・本条(ほんじょう)高等学校二年A組の教室に現れたのは、英語担当の佐古(さこ)ではなく学年主任の谷内(たにうち)だった。想定とは異なる光景を受けて、教室内には静かなざわめきが波のように広がっていた。その要因に他ならない谷内は、英語の授業を急遽取りやめ臨時のホームルームを開くと、不思議そうな顔をしている生徒たちに伝えた。その表情は曇天のように暗く、一様に重苦しさを感じさせた。  未だ事態を呑み込めていない生徒の中の一人が「何かあったんですか、先生」といつもより控えめな様子で尋ねた。 「ああ……」  谷内は歯切れの悪い言葉を返した。学年主任として皆を半ば強引なまでに鼓舞するいつもの快活な姿がすっかり影を潜めてしまっていた。 「菊池(きくち)公太(こうた)君が、交通事故で亡くなった。少し前にお母さまからその連絡があった」  教室内の静かなざわめきは、一瞬にして悲痛な驚きの声と表情に上書きされた。  二年A組に所属している尾上(おのえ)美紀(みき)斉藤(さいとう)香織(かおり)の二人は、公太の家をお悔やみで訪れることにしていた。公太とは同じ吹奏楽部に所属し、毎日のように顔を合わせる仲だった。公太は数少ない男子部員の一人だったが、元来の物腰柔らかな性格からか違和感なく女子だらけの集団に溶け込んでいた。三人とも同じ金管楽器を担当していたためパート練習が一緒で、部活動中でもそれ以外の時間でも言葉を交わすことが多かった。  そんな親しい間柄の公太が、事故とは言え突然この世を去ったという一報は二人に強いショックを与えていた。葬式は親族内でひっそりと行うという意向だったが、せめて最後のお別れを言わせて欲しいと吹奏楽部の顧問を通じて頼み込み、何とか了承を得た。  都営のバスに乗って教えられた最寄りの停留所で降り、歩いて菊池家を目指す。その町はこれといった特徴はないが、幾分豊かな自然を感じられる閑静な住宅街だった。ところどころに草が生えているアスファルトの道の上を進むと、しばらくして目指していたマンションが視界の中に姿を現した。  ガラス張りの両開きの扉を押し開け、マンションのエントランスに入る。オートロックのインターホンで、事前に伝えられていた四〇六号室のボタンを美紀の微かに震える指が押した。ややあって「はい」という声がスピーカー越しに響いた。 「すみません、公太君と同じクラスだった尾上と斉藤です」 「ああ、お待ちしてました。どうぞ」 「ありがとうございます」  すぐに正面の扉が開いた。  美紀と香織は廊下を進み、エレベーターに乗り四階へ上がった。いざご遺族との面会を前にすると、緊張からか喉が渇き、胸の拍数も増えていた。  四〇六号室の前に立ち、ふうと息を吐いてからインターホンを押した。再び「はい」という声が、扉越しに今度はクリアに響いて来た。すぐに玄関の扉が開いた。 「はじめまして、尾上美紀です」 「斉藤香織です」  二人は玄関先で頭を下げた。 「はじめまして、公太の母の佐世子(さよこ)です。わざわざありがとうね」  佐世子は朗らかな笑みを向けてくれた。どれほど暗い空気が立ち込めているかと身構えていただけに、その表情に二人の緊張は和らいだ。気丈に振舞ってくれているのだろう。何て心の強い人だろうかと美紀は思った。 「いえ、こちらこそ無理言ってすみません」 「とんでもない。さあ、上がって」  玄関で靴を脱ぎ、二人は家の中へ上がった。静寂に包まれた室内を、佐世子の背中を追って遠慮がちに歩く。 「ここよ」  通された和室には、想像よりもいくらか簡素な仏壇が設けられていた。その中央には、その切り取られた瞬間にはこのような人生の結末を迎えることになるとは想像だにしていなかったであろう、笑顔を浮かべた公太の写真が飾られていた。美紀は胸に締め付けられるような痛みを覚えた。  二人は仏壇に向かって手を合わせた。無力な自分たちには、せめて公太が安らかに眠ってくれることを祈る他なかった。 「本当に、この度は残念なことに……」  美紀は目を開くと佐世子にお悔やみの言葉を伝えた。 「ええ、突然のことで。私たちもまだ現実を受け止められていないの」 「そうですよね……」  言葉が続かない。しばらくの沈黙の後、隣の香織が口を開いた。 「でも、公太君はとても優しい子でした。演奏も上手で、よく丁寧に教えてくれてました」 「そうだったの。それは嬉しいわ……」 「だから本当にみんなも悲しんでます」 「ありがとうね……」  母親は切なげに微笑んだ。 「あ、この写真……」  香織が机の上に置かれた写真立てを見つめながら言った。 「ああ、それは公太と父方のおばあちゃんが一緒に映ってる写真よ」 「二人ともすごく良い笑顔ですね」 「そうね……私たちが共働きだったから、公太は小さい頃はよくおばあちゃんにお世話になってたの。絵に描いたようなおばあちゃんっ子で、大きくなってからもおばあちゃんとは仲が良くてね」 「そうだったんですね。何だか、すごくイメージ通りかもしれないです」 「うん、確かにそうだね」  美紀も香織の言葉に同意した。 「公太君はやっぱり昔から優しい心の持ち主だったんですね」 「そうねえ、それだけはずっと変わらないあの子の取り得だったかもね」  いつ話しかけてもにこやかで、機嫌の悪そうなところを見たことのない公太の顔が浮かんだ。  美紀と香織は、佐世子としばらく公太の思い出話に浸り、丁重にお礼を述べてマンションを後にした。 「あのこと、言わなくて良かったのかな……」  帰りのバスの中で、美紀は香織に小さく呟いた。 「うん、言わなくて正解だよ。伝えたところでどうなるわけでもないし、余計に辛い思いさせちゃうだけだし」 「そう、だよね……」  美紀はそう言うと、眉根を寄せて車窓から暮れ行く街並みを見つめながら、バスの揺れに身を任せた。  結局母親の佐世子に伝えることはしなかった、公太にまつわるとある事実。公太はツイッターで、いわゆる表アカウントとは内容を異にする裏アカウントを持っていた。それ自体は珍しいことではなかったが、そのアカウントでの公太の様子はここ数か月で変わっていっていた。  特別に親しい間柄であった美紀と香織だからこそその裏アカウントを見ることが許されていたのだが、公太のつぶやきには徐々にネガティブな内容が目立つようになっていった。心配に思いながらも、二人は公太に直接そのことを聞いたりは出来なかった。学校で見る公太の様子には特に変化は見られなかったからだ。  二人の複雑な内心をよそに、公太の裏アカウントが醸し出す負の空気は濃さを増していった。そして、公太は事故にあう数日前に際立って不穏な一言を呟いていた。 『もうだめだ。僕は、死神に呪われた』  その一言を最後に、公太のアカウントの更新は止まり、そのまま帰らぬ人となってしまったのである。  バスに揺られながら、底知れぬ不気味さを美紀は感じていた。
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