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「ああ面倒臭ぇ。糞面倒臭ぇ。頭にくる。あいつのせいだ。全てあいつのせいだ。あの糞野郎。あいつのせいで俺はこんな目にあっている。あいつのせいで俺はこんなみじめな下働きをさせられている。あいつのせいで俺はこんな面倒臭ぇ仕事をさせられている」
前の方から、ぶつぶつと呟く声が聞こえてきた。地上人の声だ。その飼育員は掃除をしようと思っていたのか。床掃除用のモップを持っている。
「あ、ブ、ブ、ブラック・ジェントルマン」
私を見つけた。そう。私はブラック・ジェントルマン。何百日か前まで、ここ上野動物園ではそう呼ばれていた。
「き、貴様、お、檻から出やがったか」
そうだ。私は檻から出た。
「面倒なことになった」
「非常事態だ」
「捕獲網を持って来なければ」
次々にその飼育員の声がしている。私の心の中で。
「ええい面倒だ」
「こいつはテロリストなんだ」
「殺しちまったって誰も文句は言わねえ」
飼育員は持っていたモップを振り被った。
「モップで叩き殺す」
モップが振り下ろされてきた。どうした。遅い。すごく遅い。先端に蠅がとまるくらいの遅い速度でモップが振り下ろされてくる。一回、二回、三回、四回、五回。私は爪を往復させる。ようやくモップが私の頭の上まで来た。モップは六分割されている。飼育員の顔が驚きに歪む。ゆっくりと歪む。
「なんだこれは。バラバラじゃねえか」
「こいつはかなわん」
「助けを呼ばなければ」
飼育員が慌てて振り返り、走り出す。
面倒だな、と私は思った。放っておけばこいつが人を呼んで、何人もの地上人が銃火器を持って私を包囲するに違いない。ああ面倒だ。思いやられて、私は顔の前で腕を振った。まとわりついてくる邪魔な蠅を追い払う時のように。
「ぐぁ」
意味の無い声が心の中に届いた。カエルの鳴き声のような。それがその飼育員の最期の声だった。可哀想なことをした、と私は思った。飼育員は派手に血飛沫を噴出させて前のめりにゆっくりと倒れていった。背中を袈裟懸けに真っ二つに切断されて。
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