(一)枕元で

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枕元でジージーと音がする。  ゼンマイ仕掛けの電車が、部屋の中を所狭しと走り回っている。何度も寝返りを打ち、もう少し寝かせてくれと怒鳴りかけて、「あっ」と声を上げながら布団の中から顔を出した。そうだった、今日は子どもを連れてのお出かけの日だ。  十日ほど前だったか「子どもを連れて動物園に行ってくる。お前は一日のんびりしてるといい」と、妻に大見得を切ってしまった。 「ちっとも子どもの面倒を見てくれない」  とこぼす妻に対しての、精一杯のことだった。正直のところは、残業続きの現状では休息をとりたい。中途入社で契約社員という不安定な立場からはやく逃げ出したいのだ。三年後に上司の推薦があれば正社員への道が開けるというから、上司の心証を良くしたいのだ。そして今年はその三年目の正念場なのだ。そのことを妻に告げれば、少しは風当たりも和らぐとは思う。思うのだが、なぜか妻に言えない。妻にそこまでの男なの、と思われたくない。情けない男ね、とこぼされたくないというのが本音なのかもしれない。 「当てになんかしてませんよ」  頭を下げればきっと返ってくるであろう妻の言葉が、ぐるぐると頭の中を走り回り、耳の中ではそれこそジージーと回っている。 「さあ、ボクちゃん。バイバイのチュウをママとしましょうね」  嬉々として、母親の元に駆け寄る息子だ。と、赤児の娘が泣き出した。母親を兄にとられてしまうことに対する嫉妬心なのか、火が点いたように泣いている。母親の前で立ち止まった息子、どうしたものかと思案しているように見える。母親と娘を交互に見やっている。まだ三歳児なのに、なんとも健気な息子だ。 「いいのよ、ボクちゃん。いらっしゃい」 母親の優しい声に、うん! と大きく返事をして嬉しそうに母親のひざに飛び乗った。 「いいこと。動物園では、走り回ったらだめよ。はい、では行ってらっしゃい」  息子の唇に軽く唇を触れながら、チラリと妻がわたしを見た気がした。わたしといえば、そんな二人を正視することができず、泣き叫ぶ姫をあやしにかかった。しかし、よしよしと声をかけるだけで、何をすることもできはしなかった。 「じゃあなた、行ってらっしゃい。お昼を食べたら帰ってきていいから」  小馬鹿にされた気がしたわたしは、つい閉園時間までいるさ、と口にしてしまった。昨夜の嬉しそうな顔をした息子を思い出しては、そう言わざるを得なかった。
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