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私は口を開けていた。あ、ぜ、ん、というやつだ。その口に吸い込まれるように、兄はさらにテリトリーを振り切って、ついに私の横たわるソファーの前に立ったのだ。
「なんだこれ。意味わかんねーけど、行って来いよ。気晴らし。俺は構わねーから」
目の前に差し出されたのは、ついさっき葬ったはずのチラシ。私は動転した。兄が暗黙の了解で成り立っていた互いのテリトリーをぶっちぎって来たとか、インクの滲んだ紙切れを意味不明にひらひらさせているとか。そんなことはどうでもいい。
兄がしゃべったのだ。クララが立ったのだ。そんな歴史的大事件を目の当たりにして、開いた口は到底ふさがる気配がなかった。
同じ屋根の下で暮らして十九年。兄の声を聴いたのは、これが初めてだった。
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