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「使って」
不意に、空気が動いた。目の前に、可愛いウサギ柄のハンカチが差し出される。俺は目を上げて、息を飲んだ。彼、だった。俺の、憧れの。
「ああ、これじゃ足りないか……ちょっと待って、ねえ、タカシさん、おしぼり幾つか頂戴」
俺が微動だにしなかったら、ハンカチを引っ込め、彼はバーテンダーに声を掛けていた。ああ、店にも迷惑を掛けてしまった、と今更気付いて、慌ててしまう。
「あ、あの、大丈夫です! 直ぐ、帰りますから!」
急いで立ち上がって俺がそう言うと、彼は、き、と俺を睨んだ。ああ、その顔も、びっくりするくらい、可愛い。
「そうも行かないでしょう? 帰り道でそんな姿を晒したいワケ?」
「で、でも……」
確かに、電車を乗り継いで帰らなければいけない俺は、それはそれは、すごく注目を浴びる事になるだろう。出来る事なら、大人しく世間の片隅で静かに暮らしたいと思っている身としては御免被りたい事だった。だが、完全に店に迷惑を掛けている今のこの状態も辛くて、ただひたすら、今はこの場を抜け出したかった。もごもごと何かを言おうとすると、目の前におしぼりが差し出される。
「年長者の忠告は聞くもんだよ。リョウ君、モップ持って来てよ~。気が利かないなあ」
彼が黒服の一人に向かって言うと、今気付いた、と言うように人が、黒服が動き出す。やがて、その動きは店内に広がり、俺の周りが迅速に片付けられ始め、そして、直ぐに、また、いつもの穏やかな、心地の良い騒がしさが戻って来る。
「本当にすみません、すみません」
頭を下げ、口でも謝りながら、俺はアルコールをおしぼりで拭き取る。
「そっちじゃ無いでしょう! 先ずは自分!」
テーブルや椅子を拭いていたら、怒られた。ちら、と見ると、呆れた顔をした彼は、カウンターに置かれたおしぼりを手に取って俺の顔をおもむろに拭って来る。意外と、力、強いんだな、と茫洋と思ってしまう。
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