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70 とらが変なんだ。…3
思わず飛び出してしまった名前を慌てて飲み込もうと夏目が口に手を当てる。
二人の間に沈黙が流れた。
何の連絡もしてこない彼女の事を廉司が想い続けていることを知っている。
勇気を出して廉司の方からコンタクトを取ろうと試みていたことも。そしてそれが尽く失敗に終わっていたことも。
傷ついているだろう廉司に何も声を掛けられずにいた夏目だったが、これならば自然に聞こえないだろうか。
「一花さんが悲しみます」
「……」
「来てもらうことは出来ませんか」
「無理だ」
「何故です」
「アイツは、忙しい。……それに」
「?」
「コイツを、とらをダシにするみてぇだ」
「いけませんか?」
夏目の言葉に廉司が目を丸くする。
「会えるなら、理由なんてなんだっていい。会うためなら何だって利用する。俺ならそうします」
夏目の真剣な眼差しに、しばし言葉を失っていた廉司は、やがて苦し気な息を漏らしながらのろのろとしゃがみ込み、とらを床へ下ろした。
そのままの態勢で夏目を見上げる。夏目も視線を逸らさない。
「わかったよ」
髪を後ろへ撫でつけながら廉司が立ち上がる。渋々といった様子で歩き出し、廊下へ続く敷居の上で立ち止まった。
薄っすらと口元に笑みを浮かべる夏目を憎々しげに睨む。
「無視されても知らねぇからな」
「その時は俺を殴って下さって結構ですよ」
「殴られるだけで済むと思うなよ?」
どしどしと廊下の床を踏む音が遠くなる。
足元のとらをチラと見遣る。
我関せず、といった表情で目を瞑るとらに、夏目は心の中でグッと親指を立てた。
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