第5章 転調

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第5章 転調

77 分岐点…1 「アメリカ……ですか」 「そう」  捜査一課のデスクで過去の事件資料に目を通しながら待機していた一花を主任の藤田が呼んだ。  言われるまま後をついて廊下へ出る。突き当りの休憩スペースに何度か挨拶を交わしたことのある中年の男が立っていた。刑事部長の中嶋(なかしま)だ。  自販機の前で何がいいかと問われ遠慮したが、中嶋は聞く耳を持たず硬貨を投げ入れた。頭を下げて温かいミルクティーの缶を受け取り、促されるまま長椅子に座った一花に藤田と中嶋は微笑んだ。  だが、一花の顔に喜びの色は見えない。  藤田は失笑した。 「なんだ、渓。嬉しくないのか」 「いえ、その……何というか」 「異国の地は不安かね?」  幼子を安心させるように中嶋は目尻に皺を寄せる。一花は小さく首を左右に振った。 「わかりません」 「何がだね」 「……どうして私なんでしょうか?」  ただ純粋に、自分が選ばれた理由が分からない。  そんな一花の疑問を、中年の二人は可愛らしく思った。  足元を見つめて考え込む一花の眼前に手をかざし、視線を自身の顔へ向けさせると、藤田は口元に笑みを湛えたまま真面目な口調で話しかけた。 「渓」 「はい」 「こないだの銀行籠城事件、覚えてるか?」 「勿論です」 「じゃあ、俺があの時言った言葉は?」 「?」 「お前を突入の先頭に立たせた時に、かけた言葉だ」 ――お前には期待している。お前の持ってるもの全てを見せてやれ  強く記憶に留めていたわけではないが、確かそんなことを言われた気がする。 「あの言葉は、その場かぎりで言ったんじゃない。……悪い意味に捉えないでほしいんだが、俺は正直、女であるお前がSITでこれほどまで頭角を現すとは思わなかった。無意識に偏見を抱いていたのかもしれないと、自分を恥じている。俺は本気でお前に期待してるんだ。ゆくゆくはSITを引っ張る存在になってほしい」 「……」 「渓くん。君の突入班での活躍ぶりはよくよく聞いているよ。藤田主任だけじゃない。他部署からも折り紙つきだ。だが、君はまだ若い。もっと沢山のことを吸収できる。そう信じているんだよ」  だからアメリカのFBIで、一度本場の交渉術を学んでこないか――  三人の間に沈黙が流れる。  一花は知らぬ間に服の上からネックレスをなぞっていた。
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