act.1 破れかぶれのチーズ。

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act.1 破れかぶれのチーズ。

 その男性客はまだシラフみたいに見えた。おしぼりで手を拭きながら、「マスター、なんか食べるものあるかな」なんて言う。  和哉はちょっと考える表情になって、斜め上を見る。それからいつもの調子で言うのだ。 「アジのマリネがちょうどよく浸かってますね。あとフルーツトマトがあるんで切りましょうか。チキンも30分も頂ければ頃合いに焼き上がります。どうしましょ。ピザもいけますよ?」  ……この店は、ショットバーなのに。  乾き物とピーナッツを出しておけば客は納得する。なのに和哉は、そんな怠惰な事は出来ない、と言った。店をしようと思うんだ、と開店の相談を受けた時に。 「酒を飲みゃ腹が減るんだ。そこにチータラがあれば人はチータラをつまむだろう。でも美味いつまみで飲む酒は最高だ。だから華、お前の食いもんに関する知識を貸してくれ」  和哉はお酒の知識しかない。対してあたしは、食品関連の会社で働いていた事もあるけれど、美容ライターの傍ら小遣い稼ぎでやっていたグルメライターの経験があったから、食べ物に関しては明るかった。  大体実家からして食べ物屋だ。その上自他共に認める大食いの食いしん坊。嬉々として和哉の店のメニュー展開に参加した。アジのマリネもローズマリーのチキンもあたしの提案だ。  さあ、このスーツ姿のお客さんは、何をオーダーしてくれるんだろう……。 「昼から何も食べてない。本気で腹が減ってるんだ。マスターの見立てで美味いものを出してみて。1杯目はビールだ。詳しい話はそれからしよう」  ――ええっ。  他人事ながら、あたしは固まる。なんなんだろう、このお客さん。  ここはショットバーですよ? レストランバーでもなければ、ましてや創作料理屋なんかでもありません。そんなオーダーで、満足のいく食事が摂れるとでもお思いですか?   年の頃なら30代半ばって感じのこのお客さん。多少は飲み慣れてそうだけど、それにしたって無鉄砲だわ。お腹が減っているのなら、ちゃんとした料理屋さんに行って、自分好みのオーダーを熟考するべきなのに。  それなのに、和哉もにやっと笑ってこんな事を言うのよ。
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