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そんなことを考えていたら、廊下を人が歩く足音がして、ギョッとした。まさか、戻ってきたのかと。
おれも参っていたんだろう。だが、現れた絵師よりは、くたびれた顔をしちゃいなかったと思う。
「イチさん。あんた、大丈夫かい」
眼鏡が驚いた顔で腰を浮かした。仕方ない。おれたちは誰も同じ顔をしていた。
この人のこんな姿は見たことがない。この人は、絵描きのくせにいつも清潔な着物を着ていて、髭もきれいに剃っているはずだった。おれの倍ほどもあるのじゃないかって巨きな体を熊みたいに丸くして、だけれどいつもどっしり頼もしく、ぶっとい指で摘まんだ筆で優しい世界を描き出す、ご神木みたいな男であったのに。ああ、そんなに肩を落として。目の下には隈を作って。無理に笑うから、下唇が変に歪んでいるじゃあないか。
いないのだ。死んだのだ。消えたのだ。この人の前から。この家から。この世界から。ここにはもう。アイツ。
机の上にはまだ画帳があった。筆も絵の具も、いつでも準備万端に見えるのに、そのまま、ずっと置かれているのだそうだ。死ぬ直前まで、病床でも鉛筆を握って、それもできなくなったら、それでも視界に絵筆を置いてくれと、アイツの願いをおれは今、聞いたような気さえする。
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