そして、また、秋の風。

13/15
前へ
/15ページ
次へ
 だけど足りない。こんな程度じゃ。まだアイツはあのときの、雪のスケッチを完成していない。アイツは生きていたはずだった。もっとたくさん、まだまだ、もっと!それこそ降り積もる雪のごとくに、こんな絵を残していたはずだった!この部屋いっぱい、埋め尽くしても足りないぐらいに、汽車に乗って地方でも、船に乗って外国にだって、アイツの絵は愛されなくっちゃあならなかった!その芸術の完成を、見ぬまま、おれの前から消えるという!おれにサヨナラ、言えという!  許しがたい悪行だ。贖いがたい罪業だ。死んでも償えないに決まっているから、死神の手を振りほどいて戻って来いよ。続きを描けよ、再び死ぬまで!  秋の空には秋の風。やわらかな日差しにヒヤリ、木枯らし、吹いた。戻らぬ魂、連れ去るように、どこへともなく消えていく。最後に見つけた絵描きの画帳は、なぜかやたらに空の絵ばかり、雲の姿ばかり追っていた。 「先生。真新しい画帳を下さいませんか。まっさらの、なんにも使っていないのを一冊」 おさげの娘の望む通りに、絵師は新品の画帳を一冊、となりの部屋から持って来た。娘はそこの最初の頁に、押し花の花を、鉛筆でよいから、描いてくれまいかと言った。 「先生にお願いするのは失礼なことだとわかっていますが、どうか、お願いします。この花は、わたしが持っていたいのです。それに、きっと、先生の絵なら陸之助さん、喜ぶでしょうから」 「描くのはいいが、これをどうする。あの子が喜ぶのなら、幾枚だって、描いてやろうが……」 娘は細い指先で、そっと、ガラス細工に触れる手つきで机の上の筆をとり、両手で挟んで目を閉じた。     
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加