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「この筆と、先生の絵と、真っ白な紙。それがいつも宝物だと、陸之助さん、言っていました。ですから、今も、きっと絵を描いているでしょう。紙が足らなくて困っているかもしれません。使い慣れた筆を探してらっしゃるといけません。わたし、今から手紙を書きます。一緒に火にくべて下さい」
長い睫毛を濡らして、一筋、涙が、畳に落ちた。
ああ、空に。
空に、アイツは行ってしまったのか。自分が乗る雲を探して画帳を埋めてしまうほどに、死んでも絵描きでいたかったのか。死んだら次は雲の上から、地上をスケッチする気でいたのか。
だけれど、空は静かすぎる。アイツの声はどこにも聞こえず、今日は、雲もない。おれも、眼鏡も、他のやつらもせっかくだからと筆をとったが、間抜けにも、おれたちだれも、あいつに贈ることばがなかった。絵描きが死ぬのは知っていた。決まっていると思っていたから、追悼の詩なんて、アイツが生きている内に、何度も考えていたはずなのに。葬式の日に披露して、みんなをグズグズ泣かせてやろうと思っていたのに。茫漠たる悲しみの向こうに、無限のはずのことばはいずれも流されて、おれは、この日、間抜けにも、ただ一粒の心の染みすら描写できずにいたのであった。
新しい頁に、新しい花の絵を添えた画帳を一冊。穂先の少し曲がった筆を一本。白紙のままの手紙が五通。清い娘の告白ひとつ。
「あ。せめて、コイツも一緒に頼む」
新聞屋が写真を一枚、追加した。葬式の日の写真であった。
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