そして、また、秋の風。

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 慌てて家主に借りたので着丈の合わない喪服の袖を煩わしく思いながら一服していると、眼鏡がのっそりやって来て、おれの向かいに腰を下ろした。それが無いと世界がぜんぶ溶けかけ氷から覗いているようにボンヤリして、赤ん坊の発する言葉の方がマトモだってぐらい、なんでもかんでも見えなくなっちまうという眼鏡は命の次ぐらいには大事らしいが、酒も煙草もないと死ぬと日頃言っているような男の言葉なので、結局なにが本当に大事やらわかりゃしない。このときもやはり指の間に煙草を挟んでいて、しかしさすがにうまいと言うような顔でもなくて、つまらなそうに、ぽっかり、煙を吐いた。 「イチさんの顔を見たか。あの男が泣くなんてナァ」 泣くなと言ったって無理だろうとはコイツも思っているはずだ。だって死んだ絵描きは泣いてる絵師の、今じゃタッタ一人っきりの弟子だった。ほとんど父子同然で、爺さんと孫だと日頃おれたち揶揄したほどに、歳の開けた、仲の良い、この世に二人きりの師弟であったのだ。  おれたちはただ遣る瀬無さに、言う必要のないことばを並べて、吸う必要のない煙を吸って、心をひたすら誤魔化していた。ああ、いつもだったら、おれたちは、ふざけているばっかりで、こんな着物でこんな顔して話をするような仲じゃあない。  だけれど、今日は仕方がない。あの男が泣いたって、おれたちゃ誰も驚かないし、責めもしない。おれたちの煙草についても貧乏のくせしてなんて苦情は今日は一切、受け付けない。仕方のないことなのです。そうでなくては、灰の代わりに涙が落ちる。  年増の泣く声がする。たしか、飯屋の女房だ。 「かわいがっていたからナァ、あのおかみさん、アイツをサ、かわいがっていたからナァ」     
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