渾身のネコパンチ!

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 ガラステーブルの上に置かれた、マグカップ。ミルクで淹れられたココアが、甘い香りを湯気に乗せて香らせる。てっきり先に足を拭くものを寄越されると思っていたので、先にココアが出てきて驚いた。 「……いただきます」  あまり足を毛足の長いカーペットの上に乗せないよう気を付けながら、カップを手に取る。七瀬はカップを置くとリビングを出て行き、静は六十平米はありそうなリビングに一人残された。  広すぎる上に物音一つしない空間。段々と怖くなってくる。手元にある温かいココアだけが唯一の救いで、飲めばホッとした。  ただこれ、ココアの味と匂いはするがいつも飲んでいる市販のものと風味が違う。もっとコクがあり、甘さも若干控えめだ。それなのに今まで飲んできたどのココアよりも美味い。もしかすると純ココアからの手作りか。いや、あれはダマになりやすい上に手間もかかる。ミルクを沸かす必要もあるし、そんなことをしているようには見えなかった。  こんな豪邸に住んでいるくらいだ。きっと、静の知らない高級なココアなのだろう。七瀬にココアのイメージはないが、こればかりは人の好き好きだ。イメージで嗜好品は判断できない。  七瀬が戻ってくる。手にはオフベージュのタオル。湯気が立っており、彼は静の足元に跪くと片方ずつ丁寧に拭き始めた。 「いや、自分で」 「動かないで。ココア、零しちゃうよ?」 「でも」 「このソファ、百二十万するんだよね」 「ひゃっ?」  北欧作家の特注品だと微笑む七瀬に、途端動けなくなる。そんな静に、七瀬は可笑しそうに喉を鳴らしながら汚れた足を拭いていった。人肌より少し温かいタオル。わざわざお湯で濡らしてきてくれたのか。  人のことを勝手に拉致したかと思えば、美味いココアを淹れてくれたり足を拭いてくれたりと、おかしなことをする男である。何を考えているのか分からない。 「はい、綺麗になったよ。寒くない?」 「……大丈夫。その、ありがとう」 「どういたしまして」  何がそんなに楽しいのか七瀬は終始ご機嫌だ。またタオル片手にリビングを出て行き、しばらくして戻って来た。キッチンで珈琲を淹れ、静の隣に腰掛ける。  L字型の大きなソファ。五人は座れるだろうそれに、二人。並んで座る必要がどこになるのか、七瀬は体をくっつけてくる。体を離そうとしたが、先に腰を抱かれて動きを封じられた。 「それで、どこから話そうか?」 「……。俺が拉致られた訳から」 「それは簡単だよ。一緒に住もうと思って」 「だからなんで、一緒に住――……、住む? え?」 「明日荷物が届くから、部屋に案内するね。寝室はさっき眠ってたところ使っていいよ」  さも当然のような顔をして言うので、ついうっかり頷き返しそうになった。寸前で我に返る。  有り得ない。有り得なさ過ぎて言葉が出てこない。  唖然としたまま首を横に振る。けれど七瀬は、笑みを深くするだけだ。 「静は、あと一年ちょっとで死にたい?」  例の寿命のことを言っているのだと分かり、眉根を寄せた。別に楽しくて仕方がない人生ではない。こんな体質であるし、静なりに色々ある。それでも、死ぬのは嫌だ。やりたいことも沢山あるし、食べたいものもまだまだある。何より迷惑かけてきた両親になんの恩返しもしていない。  ココアを飲み干し、カップをテーブルに戻した。 「もしそれが本当のことだとして、アッサリ死にたいとか言う?」 「どうだろう。最近は死にたい人間が多いしね」 「俺は、嫌だ」 「それは、描きたいものがあるから?」  瞠目する。  どうして知っているのか、隣の七瀬を見上げて更にきつく眉をひそめた。 「日本画の鬼才、本郷(ほんごう)秀乃丞(しゅうのじょう)の孫であり、美術予備校に行かずトップの実力で大学へ入学した天才。もっと上の大学も狙えたのに、祖父の力が働くのを嫌ったのかランクを落として入学。その後、瞬く間に才能を開花。作品には既にコレクターがついており、海外の美術関係者からも熱視線を送られている。約一年の空白期間はあったものの、その間に描いたと思われる干支をモチーフにした絵は高い評価を得て、近く大学で個展を開く予定。海外の美術館スタッフが君の絵に興味を持っており、出展した作品の買い取りを強く希望されている」  体が震えた。ソファから立ち上がり、七瀬から距離を取る。 「作品を売ったお金で生活できるのに、あまり売りたがらない傾向にあるため本人はバイト生活に明け暮れている。バイト代のほとんどは画材に使われ、時折ほんの気まぐれ程度に作品を売って生活費に充てている」  七瀬がカップを置き、立ち上がって静の前に立った。見上げる男を睨みつけ、拳を握る。七瀬は艶然として静の頬を撫で、こう締め括った。 「そうだろう? 本郷静くん」  目を眇めた。  以前、静はこの男に自分のことを相澤と名乗った。別に適当についた嘘ではない。相澤は母方の苗字で、数年前まで確かに静は相澤と名乗っていた。それを本郷の姓に変えざるを得なかったのは、全て祖父のせいだ。  父と祖父はいわゆる絶縁状態で、高校に入るまで静は祖父のことをまったく知らなかった。もちろん会った記憶もない。父親には、死んだと聞かされていた。  そんな、祖父が画家だとは知らない静の趣味が、絵を描くことだった。中学高校と絵を描き続け、高校の時、部活の一環で顧問が日本画家の展覧会に部員を連れて行ってくれた。その際に見た、ある一幅(いっぷく)。鳥肌が立った。その場から離れられず、食い入るようにしてしばらく見続けた。  タイトルは雪椿。花と雪。題材的にはよくあるものだ。けれど今にも花が零れ落ちそうで、雪上に落ちた音すら聞こえてきそうで、世の中にこんな絵があるのかと頬に涙が伝った。  それから独学で日本画のことを勉強した。楽しかった。ワクワクしながら、貯金を崩して画材を買いに走った。日本画の画材は、高価なものが多い。しかも専門で教える人間が少ない。高校では師事する人間もなく、ひたすら独学で描き続けた。ネットで検索したものを見たり、図書館に通ったり、古本屋で本を買い求めたり。日本画を展示している場所を求め、徹底的に見て回った。  そんな高校二年の夏。両親に大学で日本画を学びたいと伝えた。  その時見せた両親の顔は、一生忘れないだろう。 「……調べたわけ?」 「僕の大切なご主人様のことだからね」  よく言う。心の奥で吐き捨て、静は七瀬から顔を背けた。  祖父のことは静にとって、触れて欲しくない話題の一つだ。大学ではさすがにバレてしまっているが、静は今でも相澤と名乗っている。雅号に相澤(そうたく)と付けたからだ。                 
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