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アンデスの子守唄
視界を流れていく木々の葉の色が濃くなっていく。森の中心部が近づいている。村の近くの木々よりも倍近く高い木々が太陽を隠し、森の気配が深まっていく。森の中心部は森の深部でもある。
キシャアアアーーー
アンデスが頭上から威嚇するような声を上げた。気が荒ぶっている。
「ジン、たぶんもうすぐよ!」
「わかった」
太陽の光が届かないからか、昨日の雨の跡が乾ききっていない。ぬかるんだ地面に足をとられそうになりながら、マリアはジンを追いかける。
パッと目の前がひらけた。
「!」
周りをうっそうと囲っていた木々が消え、ぽっかりと開けた地の中央に、空を突き抜けるほどに大きな木が立ちそびえていた。人が10人で囲んでも囲みきれないほどの幹の太さだ。リリアほどにもありそうな大きな緑の葉が、遥か上部で開けた地を覆い、その葉の合間を柔らかい光が差し込む。地面のあちらこちらに植物が生え、それらが受けた雨の名残りが、天使の祝福を受けたかのように色づいてきらめく。光の当たらない場所は闇濃く影をつくり、その陰影がこの場所を幻想的に見せていた。
そして、その幹の下に、こちらを深く静かな瞳で見つめるアンデスがいた。
「これは……」
「伏せろ!」
上空からアンデスが滑空してくる。ジンに体当たりされ、ベビードラゴンを守るように体を転がす。その上を突風がつっきっていった。ジンが助けてくれなかったら、今ごろ体が真っ二つだ。高まる心臓を抑える。
「気を緩めるな! 俺たちにはリリアがいるんだぞ」
その一言にマリアは息を呑む。ゆっくりと深呼吸をし、地面に体を伏せたまま、森の方へと後退する。
上空から滑空してきたアンデスは木の下に座るアンデスの前に降り立つ。木の下のアンデスの翼は深い灰色だ。
「番いだったのね」
雄のアンデスは雌に気に入られるために、その翼を黄金に彩るという。灰色の翼を持つアンデスは雌だ。
雌のアンデスを守るように立ち塞がったアンデスが、雄叫びをあげながら突っ込んでくる。
「逃げろ!」
開けた場所でのアンデスの速さは桁違いだ。ジンとマリアが左右に転がると、その間をアンデスが横切る。
「頭に血が上っていやがるな」
アンデスがその勢いのまま旋回し、再びこちらに突っ込んでくる。
風が鳴り、体が吹き飛ぶ。先ほどよりもアンデスが横切る位置が近い。
「いくら直線とはいえ、これは避けきれないぞ」
ッシャアアアーー!
アンデスが咆哮とともに翼を大きく広げた。黄金にも見える翼が太陽の淡い光を受けて煌めく。
風が空気を切り裂き、音にならない音波と斬撃がマリアたちを襲う。
森に逃げようにも立ち上がることができない。
マリアは腕の中のベビードラゴンを守るように背中を丸め、身体を地面に伏せる。
ジンがときおり這ったままで短剣を振るうが、アンデスの急所を攻撃しないように抑えている。スピードにのったアンデスには届かない。嘲笑うかのようにその攻撃をかわし、さらにスピードを上げたくちばしでジンの腕をえぐる。
「っ!」
「ジン!」
ターゲットをジンに絞ったのか、アンデスがジンの腕を的確に狙って滑空する。
逆の腕でジンがかろうじてくちばしを弾く。上に高く開いた空間と視界の良いこの地形がアンデスに有利すぎる。寝そべった体制を変えることができないジンは圧倒的に不利だ。防ぎきれなくなった攻撃がジンの体を襲う。
「やめて!」
「マリア、逃げろ!」
「いやよ!」
キュアをするにはジンが遠すぎる。アンデスが旋回するタイミングで、マリアはベビードラゴンを地面に横たえると、ジンに駆けよる。アンデスが旋回するその間に短い詠唱を唱えた。
キュアが間に合えばジンも逃げられる。アンデスがマリアをつらぬくのが先か、マリアがジンを癒すのが先か──。
「マリアアァァ!」
容赦なく滑空してきたアンデスがマリアの目前に迫る。
ジンが体を起こすのがスローモーションで見えた。リリアの笑顔が目の前にはじける。
間に合わないーー!
リュクウウウウウウー!!!
空を鳴き声がつんざいた。
アンデスもマリアもジンも動きが止まる。その鳴き声に思わず耳を塞ぐ。
脳をかき回すかのような超音波だ。
「こ、れは」
「あ、の、ドラ、ゴンか」
葉と藁の上でいつのまにか目を覚ましたベビードラゴンが泣いていた。鳴き声があがるたびに翼が小刻みに震える。涙が黄色の眼からほろほろと溢れ、小さな体のどこからそんな声が出るのかと思うほど、高く大きな声が木の葉を揺らす。
マリアは耳を塞ぎながら、よろめきつつベビードラゴンの前に跪く。
「お、ち、つい、て」
マリアの声はベビードラゴンの声にかき消される。その目は何もみえないとばかりに、頭を振り、尻尾を地面に振り付けている。
まるで駄々をこねる子どものようなその姿がマリアを駆り立てる。悲しみが胸を襲う。
「な、んで」
ジンの涙に濡れる声が聞こえた。マリアも泣いているのだろう。頬を温かいものが流れていく。超音波のようなベビードラゴンの声にならない嘆きと悲しみが、マリアの心までをも刺激する。
マリアは両手を耳からゆっくりと離す。
「マ、リア、だめ、だ」
ジンの声が鳴き声に掻き消える。耳鳴りにも近い音が鼓膜の奥で鳴る。その痛みで理性が飛びそうになるのを、唇を噛み締めて耐える。キュアの魔法をありったけの力でかけ、ゆっくりとベビードラゴンの背中に手を伸ばす。すさまじい勢いで尻尾が飛んできた。
鈍い音と感覚で手の骨が折れたのがわかる。咄嗟に手を引きそうになるのを抑える。キュアをかけていなかったら、痛さで悶えていただろう。
「だ、いじょうぶ。大丈夫よ」
手全体に力の入らないまま、そろそろと手を伸ばす。尻尾の衝撃にベビードラゴンの方が引っ叩かれたかのような顔をしている。
ふっとマリアから笑みが漏れた。
リリアが癇癪を起こして八つ当たりをしてしまった時の顔と一緒だ。
マリアの指がベビードラゴンの艶やかな毛並みを捉え、弾力が優しくマリアの手を押し返した。
「こわかったのね」
かろうじて力の入る指で、なだめるようにベビードラゴンの背中を叩く。
はっと正気づいたかのようにベビードラゴンの体に力が入るのがわかった。
「!」
「マリア!」
衝撃に身構える。ジンがこちらに走り出すのがわかった。バチバチと空の空気が鳴る。
雷鳴が──。
〜〜♪
空気を貫く瞬間、淡い音色が辺りを包んだ。
ベビードラゴンが息を呑むように動きを止め、ピクピクと音を探し出すかのように耳を動かす。怒りをたたえていた瞳がやわらぎ、ゆっくりと身体を横たえる。
振り返ると、アンデスが、木の下に座るアンデスが灰色の翼を広げて歌っていた。
真綿のようなふわふわとした優しい音がベビードラゴンやマリアを包み込む。
「マリア!」
駆け寄ってきたジンがマリアを抱きしめる。
「……子守唄だわ」
「え?」
腕を垂らしたままに、マリアは呟く。
驚きに眼が見開く。アンデスは歌声に合わせて、その大きな灰色の翼を擦り合わせている。
「アンデスの子守唄。子を成し育てる間だけ、母親のアンデスが歌うと言われているわ。初めて聞いた」
マリアの手に力が入る。アンデスの歌がマリアを癒す。
「最上級のヒーリング魔法だったのか」
「すごい。湯船につかってるみたいに気持ちいい」
全ての心身を癒す魔法であるヒーリングはそれだけで難易度が高い。これはその中でも極上だ。
母親の腕の中にいるかのように、ベビードラゴンが藁に潜り込む。
今まで攻撃をしてきていた雄のアンデスがゆっくりと飛び立ち、雌のアンデスに寄り添った。
「お腹に、子どもがいたのね」
「だから、あんなに気が立っていたのか」
雄のアンデスは生まれてくる子どもと母親になる彼女の分の食料を用意していたのだ。
マリアがアンデスたちに声をかける。
「ごめんね! あなたたちを傷つけるつもりはなかったの!」
雌のアンデスの歌が止む。雄のアンデスの首に頭を擦り付けると、雄のアンデスが頷いた。
色鮮やかに煌めく翼を広げて木の裏へと回ると、口に黄色いものをくわえて戻ってくる。
「バナナ?」
「は?」
ベビードラゴンの前に降り立ったアンデスが、そのくちばしでベビードラゴンの尻尾をくわえる。
「おい!」
「待って、ジン」
持ち上げられたベビードラゴンは、目を丸くしながらアンデスを振り返る。
アンデスはくちばしの中で器用にベビードラゴンの体勢を変え、地面に優しく下ろすと、足を使いながらバナナを剥き始めた。白い身が顔を出すとくちばしでそれをつぶす。周りに甘い香りがただよった。
「もしかして」
「あげようとしてる……?」
地面にぺたりと座っていたベビードラゴンは、その匂いにパタパタと翼を動かす。興味があるようだが、動きはしない。アンデスはベビードラゴンから目を離さずに、バナナを潰し終えると、その身を少しくわえてベビードラゴンの前に持っていく。
ベビードラゴンはくちばしを叩いたり、アンデスの体の黒い毛を引っ張ったりするが、アンデスは微動だにしない。やがてベビードラゴンは、アンデスのくちばしの間に潜り込み、頭も突っ込ませながらバナナをつかみだした。
潰れたバナナを手のひらでペタペタと叩く。その感触が面白いのか、何度も繰り返すのを、アンデスがくちばしで止める。
潰したバナナを自分でくちばしにくわえると、舌の上に乗せて見せ、少しくちばしを上に傾けて飲み込む。
そこまで見せると、もう一度、潰したバナナをベビードラゴンに渡す。
ベビードラゴンはアンデスの顔を見て、今度はバナナを口に含み、上を向いてそのバナナを口に入れた。
「そのまま飲み込むと──」
本能なのか、マリアが危惧したようには丸呑みせず、舌を動かすようにもぐもぐとしたあと、ごくりと飲み込んだ。
「! リューウク!」
ベビードラゴンの目が輝く。
「うまいって言ってるのか?」
「そんな気がするね」
小さな翼をパタパタさせながら、短い手を伸ばす。せがむベビードラゴンに、アンデスが潰したバナナを少しずつ渡す。
もぐもぐとバナナを詰め込む姿がリリアそっくりだ。
「か、可愛い」
抱きしめたい。思い切り抱きついて頬ずりしたい衝動をぐっとこらえる。
半分ほど食べて満足したのか、ベビードラゴンがせがむのをやめる。アンデスも残りのバナナを皮ごと飲み込んだ。
満足したベビードラゴンがトテトテとアンデスに近寄り、その姿を見上げて手を伸ばす。
アンデスは頭を下げて、くちばしを近づけると、コロンとベビードラゴンを転がした。
「リュークリュークリュー!」
ベビードラゴンか尻尾をブンブンと振り回し、もう一度と起き上がる。アンデスは同じようにベビードラゴンを転がした。
「なんか、笑ってないか?」
「そうだよね、笑ってるよね!」
何度も転がり起き上がるのを繰り返すたびに、ベビードラゴンの尻尾の振り幅が大きくなり、鳴き声が高くなっていく。
大泣きした先ほどと同じように、その鳴き声がベビードラゴンが「楽しい」と言っているのを教えてくれた。
こちらまで笑顔がこぼれる。
「モンスターが他のモンスターの子どもをあやしてあげるなんて聞いたことなかった」
アンデスとベビードラゴンが遊んでいるその後ろ、大木の幹の下で雌のアンデスはその瞳に柔らかな光をたたえていた。
ベビードラゴンがまたコロコロと転がり、鳴き声があがる。
「あの子が、この森を変えるかもしれないわね」
それはかすかな、しかし確かな予感だった。
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