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ファントム・シーフと新たな事実
「ママ、おしごと、おそいねー」
ジンはリリアの言葉で時計を見た。確かに、夕方には帰ってくる予定だったはずだ。
リリアはマリアのエプロンをつけて、そこらで採れた雑草や実を食べ物に見立てて、料理のものまねをしていた。ジンはなぜかお店やさんだ。家とお店がごっちゃになっているのが子どもらしくて悪くない。
正直、自分がこんな感情を持てるようになるとは思っていなかった。感情とは盗みをする上で、人をコントロールするための道具で、何かに自分の気持ちが動かされるなど、あってはならないと思っていた。自分の感情を持てるようになったのは、リリアとマリアのおかげだ。
「少し遅くなってるんだろう。先に夕飯食べておくか?」
本当の夕飯も仕込み済みだ。
リリアがぷくーと頬を膨らませ、ううん、と首を横にふった。
「ママとたべるの!」
昨日のイチゴの件は、リリアの中で消化できたらしい。今日は朝からママ、ママだ。
少し寂しい気もしながら、リリアの頭をなでる。
「そうだな。じゃあ、先に風呂に入らないか? ママには内緒で泡飛ばしやろう」
泡飛ばしは泡立てた石鹸の泡の一つひとつを、魔法で宙に浮かせる遊びで、物体を動かす魔法がそこまで得意でないジンでも簡単にできる。リリアのお気に入りの遊びのひとつだ。
「やる! ふわふわするー!」
リリアが嬉しさに飛び跳ねる。ぴょんぴょんと二つに結んだおさげが揺れる様が可愛らしい。
「じゃあ、風呂の準備するから、遊んでてくれ」
元気よく返事をするリリアの頭をなでて、ジンは風呂場へ向かう。お湯を確認しながら湯船を用意し、外に出て空を確認した。
マリアからの救難信号はない。ということは、何か危険があって不測の事態が起きているわけではないということになる。
ジンのもとへ返ってくるリターンの魔法をかけた糸を川から流すか、川まで辿り着けない場合は火の玉をあげるというのが、今の時点での救難信号だ。
ただし、これらが実行可能なのは、外部から不測の事態がやってきたときだ。内部にすでに不測の事態がある場合には、意味をなさない可能性が高い。もし、すでにマリアがこのことを話していたら、逆に足元をすくわれかねない。
もう少し、手を考えないといけないな。
ジンは湯船に溜まるお湯を見ながら考える。
のんびりした生活に慣れすぎて、鈍っていた。よくある話だ。けれど、それを伝えたときのマリアを想像すると、なかなか口に出せない。
敵は、身近にいるものだ。
ファントム・シーフには、独自の情報網がある。ジンは引退した身とはいえ、まだその情報網に、伝手も効く顔も持っていた。
静かに帳の落ちた闇夜。マリアの過去を聞いた夜。
新月の暗闇に浮かぶ赤いマントに、情報屋は慄き、同業者は身を引いた。
ジンは、足音を立てない独特の歩き方で滑るように情報屋に近づく。
「これは、これは。ファントム・シーフともあろうお方が、直にお見えですか」
食えない顔をした情報屋が、好奇の目を隠そうともせずに訊く。ジンが目深にかぶったフードをこっそりと持ち上げた。
「すでに引退した身なんです。詮索はやめてくださいね」
ニッコリと笑う。顔は変わっていないのに、見つけられない魔法を使っている。だから、ファントム・シーフは捕まらない。そう囁かれている噂は本質をついている。
表情や話し方ひとつで、人に与える印象は変わる。そうやって持った印象は、あとで思い返したときの顔を変えてしまう。だから、普段の自分とは対照的な人物像を持った方がいい、というのは師匠の教えだ。
「おお。悪辣非道なお方かと思えば、そうでもないんですね。ささ。こちらへ」
口の軽さに内心舌打ちをする。ハズレを引いたときは煙に巻いて退散すぎるに限る。
「いえ、ご主人。私は……」
「ババさま。お客さんですよ」
「わかっとる」
情報屋が奥に声をかけると、しわがれた声を出しながら老婆が顔を出した。
無造作に伸びて傷んだ白髪に、深く刻まれたシワ。目は見えているのかわからないほどにしか開いていない。
「すまんな。口も中身も軽いやつで」
「え? それ、俺のこと?」
片眉を上げながら、情報屋は大げさに自分のことを指差すして驚いている。
「こんなんでも、人を見る目はあるんだ。さあ、奥へ来なさい」
何か言い募る前に、老婆が踵を返した。情報屋がひらひらと手を振って、いってらっしゃーい、と陽気にジンを送り出す。
事を荒立てるようなことになったら面倒だ。ジンは老婆の後に続いた。
「散らかっていてすまんな。お客さんは久々だ」
奥の部屋は、ろうそくひとつだけが灯されている暗い場所で、無造作に置かれた書物や見たことのない人形、食べかけのリンゴやパンで埋め尽くされていた。部屋全体が、少しカビ臭い。老婆は適当に周囲のモノを退けると、二人がようやく座れるスペースに古ぼけた椅子が二つ現れた。
「さあ、座っとくれ。御用は何かな?」
「最近のモンスターの凶暴化について、知り得ることを全部教えてください」
老婆の目がすっと細くなる。
「高くつくよ」
「モノでよければ、なんでも」
老婆がひとつ頭を掻いた。
「この歳になったら、欲しいもんなんてないよ」
「では、換金してきます」
「いや、待ってくれ」
老婆が手をあげてジンの発言を押し留める。
「探しモノでもいいかい?」
「それが確実にあるというものでしたら」
「わかった。じゃあ、一次情報だ」
そう言って、老婆は傍に積まれた書物のひとつを寄越した。
「最近、裏マーケットで出てきた、モンスターの書物だよ。こいつの著者が、今回の件に関わっていると言われとる」
サゲン・ゲンサイ。マタギの名前ではない。ずいぶんと色あせたその本は、長い年月の間、読まれずに放置されていたのだろう。
本を開くと、著者の肖像画が描かれていた。そのほかにも挿絵付きで、さまざまな情報が書かれている。モンスターの習性。モンスターからの逃げ方。モンスターから受けた被害。
ジンのページをめくる手が止まった。
「……」
「どうかしたか?」
食い入るようにその挿絵、正しくは人物画を見ていたジンを、老婆が訝しげに見る。
「いえ、知り合いによく似ていたものですから」
本を閉じる。
「問題ありません。報酬はいかほどに?」
「これを探してきてくれ」
渡されたのは一枚の紙。そこに描かれていたのは、ひとりの女性だった。
「もし、死んでいたら、何か形見のようなもんでいい」
「なぜこの人なのか聞いてもいいですか?」
30前後だろう。髪が腰に届くほどあり、唇の下にホクロがある。
「それが、探すことに役立つかね?」
「クライアントの真の要望を理解するのも仕事ですから」
老婆がはあっと息をついた。
「店の前に座ってる男は、私の倅の息子なんだが、息子はどうしようもないロクデナシでな。私も長くない。母親だけでも見つけておいてやりたいんだ」
捨てられた、ということなのだろう。そうすると見つけたところで、どうしようもない可能性が高い。それをこの老婆もよくわかっている。
「わかりました。1週間後に来ます」
奥の部屋を出ると、情報屋の男がまいどありーと陽気な声を上げた。よく見ると、声に反して目が笑っていないのがわかる。
リリアとマリアと暮らして、ジンは人の痛みが多少はわかるようになった。静かに情報屋に頭を下げる。
立ち去る頃には、少し空が明るみ始めていた。
脳裏には、書物に描かれていた人物。10歳くらいだろうか。死んだような目をしていた。それが本当にそのような目だったのか、画家がわざとそうしたのか。今となってはわからない。
ドラゴンによって失明した被害者。
年齢も合う。容姿も似ている。ただ、今の行動との辻褄が合わない。
辻褄が合わないことには、大抵裏がある。
ジンの頭には、チューリップの描かれた白い眼帯が浮かんでいた。
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