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若者が屈託なく笑う。という事は今は二十六才。あの頃の若者は、いや当時はまだ少年だった。少年は世間から隔離され、僅かな人物と人里離れた場所で暮らしていた。楽しみといえば年に二度ほど山を降り京の町へ行く事。しかしそれも京の町中を自由に歩ける訳ではない。大きな寺院、誰のとも分らぬ大きな屋敷。その一室でこれまた誰だか分らぬ人々と会う。中には涙を流し肩を震わす者もいる。自分は一体何者なのか。父親は、母親は……。幾ら聞いても、誰に訊いても答えてくれない。京へ行くと必ず埋めようのない孤独が体全体を支配した。だが少年は京へ行くのが好きだった。行き帰りに見る人々の暮らしが眩しい。何時か自分も……それが少年の憧れだった。
柳生兵庫助が始めて少年に会ったのは、とある公家屋敷。剣術を披露していた。いやさせられていた。剣術は人に見せびらかすものではない。しかし高貴な者はえてしてわがままだ。たっての望みと云われ断りきれなかった。見詰める多くの瞳の中に少年の双眸があった。挑み掛かるような眼差しだった。
「私に一手御教えくだされ!」
案の定声を掛けてきた。またも高貴な者のわがままで断りきれなくなった。仕方なく袋竹刀を手にすると、少年は「木刀で」と云う。明らかに勝負を挑む眼だ。
「どうぞご自由に。私はこれでけっこうです」
その途端、いきなり少年が打ってきた。真っ向から振り下ろされる木刀を仰け反りながら辛うじてかわし、後ろへ飛び退く。腰を落とした位置からの鋭い突きを左へ払い、少年の手首を打った。いや打った筈だが手ごたえは無かった。少年は体をくるりと回転し、正眼に構え息を整えてにこりと微笑んだ。背中を冷や汗がつたわった。不意討ちとはいえ、十二、三才の少年に慌てさせられた。
それから少年と一緒に鞍馬へ行き三年ほど一緒に修行した。
今、十年の歳月が流れ、少年は眩しい若者に成長し目の前に座っている。
「早いものですなあ……」
「はい。先生の壮健な姿を拝見致し安心致しました」
「と仰いますと、よぼよぼの爺を想像しておりましたかな?」
「これは、失礼なことを口走ってしまいました」
若者が軽く頭を下げる。主はその姿を慈愛のこもった眼で見詰めている。
――立派になられた。
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