第1章

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 あれ程快活だった胡蝶は病人のようにひっそりと暮らしている。頬杖をつき、新月には「消えちまった」と呟き、立待月(たちまちづき)を眺めれば「欠けちまった」と涙を流す。氏姫と仙太郎は静かに見守ることしか出来ない。  そんなある日、胡蝶は長年氏姫に仕える老女に誘われ、渋々外出した。  やって来たのは何の変哲もない小さな寺。その一角にひっそりと一基の墓があった。 「奥方さまの墓でございます」  氏姫は生きている。ここへ来る時も笑顔で送り出してくれた。  訳が分からず、首を傾げて老女に顔を向けた。 「奥方さまは東海道で襲われ、黒幕が本田正純殿と分かるや、わたくしに文を送り、急ぎ墓を造るよう命じました。しかも命日を二年前にせよと」 「……」 「奥方さまは、本気で本田正純殿と刺し違える覚悟だったのです。江戸城内でもどこででも……つまり、喜連川藩に迷惑が掛からぬよう二年前に死んだことにしたのです。殿様にもそれ以前に離縁した事にして欲しいと書状を送っております。本田正純殿を刺した者は喜連川藩の奥方ではなくどこの馬の骨とも知れぬ女となるように……」  かつて、喜連川藩は藩士が少ないから助けを呼べないなどと話していたが、離縁を求めていたなら尚更助けなど呼べない。そんなことはおくびにも出さず。秘めたる覚悟を持って旅を続けていたのだ。  胡蝶はそーと墓石に刻まれた文字をなぞる。元和(げんな)六年五月六日没と刻まれている。 「この墓石のある限り、後世の人は奥方さまの命日を間違えてしまいますね」  老女は寂しく笑った。  一体、あの旅は何だったのだろう。単に氏姫を護るだけの旅だったのか、それとも、筑波に眠る秘密を知りたいが為の旅だったのか……いや、そうではない。秘宝も、襲い来る強敵(てき)も関係ない。困難を乗り越え前進することがかけがえの無い旅そのものだったのだ。  九人がお互いを信じ、護り合いながら旅した日々こそが自分たちの秘宝だったのだ。  次の日の暁……。  胡蝶は誰にも告げず館を後にした。  去年の今頃は駕籠に乗った氏姫を金八銀八が担いでた。先頭はいつも仙太郎。海玄が、佐吉が、為右衛門が陽気に歩き、源之丞は最後尾を不機嫌そうについて来た。だが帰りはたった一人。一緒に修業した金八銀八も、からかう為右衛門も居ない。そして……。
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