第1章

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 宿場、宿場に思い出がある。嫌でも思い出してしまう。こんなことなら中山道にすれば良かったと後悔する。桑名宿の茶店で、あの仇討の姉弟は幸せに暮らしているかと思いを馳せていると、 「胡蝶ではないか?」  郎党を従えた侍が声を掛けてきた。 「……あっ、半蔵!」 「これ、胡蝶。呼び捨てはいかん。供がおるのだ」  眉をひそめると郎党を遠ざけた。開いた口が塞がらないとはこの事だ。 「お前、崖から落ちて死んだんじゃなかったのか」 「運よく蔦に絡まってな。命拾いしたというわけさ」 「ふーん。悪運の強い野郎だね。で、その格好は何なんだい?」  小奇麗な姿だ。よく聞いてくれたと半蔵がにんまりする。 「西国のある藩が俺をな……つまり仕官する事になった」  鼻の穴を広げにやけた顔で「先を急ぐから、これで」と足早に去って行く。  ますます開いた口が塞がらない。  鈴鹿峠の頂きに着いた。  一年前にはなかったりっぱな茶店が出来ている。茶店というより小体(こてい)な料理屋の雰囲気だ。覗いてみると檜のいい香りがする。 「おや、胡蝶さんではありませんか」  大黒屋の驚いた顔がある。家財没収されたにも関わらず、こんな茶店を建てて平気な顔でいる。  誘われるまま、縁台に腰を降ろし二人で茶を喫した。こうしていると色々な事が頭を()ぎる。何か云ようとするが上手く言葉が出てこない。無言で鈴鹿の山々を眺めているだけ。 「あっ」  と思い出し、荷物から小さな物を取り出した。火に焼けて変形した銭だ。 「為右衛門が大事に、だいじにしていたものさ」 「……知っていたので?」 「酔って、ポツリともらした。わての実の兄さんだと……」  受け取った銭を見入る大黒屋が堪えている。震えながら耐えている。 「さてと」  茶を飲み終わり立ち上がった。  目を真っ赤にした大黒屋に、ぜひ見せたいものがあると茶店の傍らへ誘われた。 「あれ程の旅をなさった方々、ここを通る旅人を優しく見守ってくださるでしょう」  そこには小さな地蔵がひっそり並んでいた……金八、銀八、海玄、佐吉、為右衛門、そして……。 「……ひとつ足りないね」 「つい先日まではあったのですが蹴飛ばされました」 「……?」 「蹴飛ばしたのですから足はありました。幽霊ではありません。一体多いと……相変わらず無粋なお方で」  今まで泣いていた大黒屋のこぼれるような笑顔である。
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