82人が本棚に入れています
本棚に追加
宿場、宿場に思い出がある。嫌でも思い出してしまう。こんなことなら中山道にすれば良かったと後悔する。桑名宿の茶店で、あの仇討の姉弟は幸せに暮らしているかと思いを馳せていると、
「胡蝶ではないか?」
郎党を従えた侍が声を掛けてきた。
「……あっ、半蔵!」
「これ、胡蝶。呼び捨てはいかん。供がおるのだ」
眉をひそめると郎党を遠ざけた。開いた口が塞がらないとはこの事だ。
「お前、崖から落ちて死んだんじゃなかったのか」
「運よく蔦に絡まってな。命拾いしたというわけさ」
「ふーん。悪運の強い野郎だね。で、その格好は何なんだい?」
小奇麗な姿だ。よく聞いてくれたと半蔵がにんまりする。
「西国のある藩が俺をな……つまり仕官する事になった」
鼻の穴を広げにやけた顔で「先を急ぐから、これで」と足早に去って行く。
ますます開いた口が塞がらない。
鈴鹿峠の頂きに着いた。
一年前にはなかったりっぱな茶店が出来ている。茶店というより小体な料理屋の雰囲気だ。覗いてみると檜のいい香りがする。
「おや、胡蝶さんではありませんか」
大黒屋の驚いた顔がある。家財没収されたにも関わらず、こんな茶店を建てて平気な顔でいる。
誘われるまま、縁台に腰を降ろし二人で茶を喫した。こうしていると色々な事が頭を過ぎる。何か云ようとするが上手く言葉が出てこない。無言で鈴鹿の山々を眺めているだけ。
「あっ」
と思い出し、荷物から小さな物を取り出した。火に焼けて変形した銭だ。
「為右衛門が大事に、だいじにしていたものさ」
「……知っていたので?」
「酔って、ポツリともらした。わての実の兄さんだと……」
受け取った銭を見入る大黒屋が堪えている。震えながら耐えている。
「さてと」
茶を飲み終わり立ち上がった。
目を真っ赤にした大黒屋に、ぜひ見せたいものがあると茶店の傍らへ誘われた。
「あれ程の旅をなさった方々、ここを通る旅人を優しく見守ってくださるでしょう」
そこには小さな地蔵がひっそり並んでいた……金八、銀八、海玄、佐吉、為右衛門、そして……。
「……ひとつ足りないね」
「つい先日まではあったのですが蹴飛ばされました」
「……?」
「蹴飛ばしたのですから足はありました。幽霊ではありません。一体多いと……相変わらず無粋なお方で」
今まで泣いていた大黒屋のこぼれるような笑顔である。
最初のコメントを投稿しよう!