3_2 仏説に適った小説は執筆可能

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3_2 仏説に適った小説は執筆可能

仮説 <仏説に適った少説は執筆可能。> <仏説に適った小説は執筆可能>。仏説とは仏様の説。其の仏の説に適った少説は執筆可能かと言う論旨です。結論から言えば可能である、と言うのが本論です。仏説に適うと言う事がそんなに大事だろうか、と思う人もいるでしょう。しかし、仏法と現実に照らして仏説に適うと言う事が非常に重要なのです。前文で述べましたが妄語を連ねる作家の末路は臨終に悪臨終を現ずることに成るでしょう。羅什三蔵の逆です。虚妄の罪は結構重いです。地獄に落ちます。ですから、仏説に適った小説と言う提題は非常に重要な問題なのです。そして前文でも仏説に適った小説の執筆方法を探す、と言う提題で文章を連ねてまいりました。仏説に適う小説、その方法とは、簡単に言って、肝要なのは仏門の一つとする、読むことで仏門に至る、と言う方法です。 反論    流言綺語等の誹り。  小説を謗る常套句の一つとして、流言綺語、流言飛語等が有ります。根拠のない噂、流説、綺語—真実を離れて飾り立てた言葉、です。確かに根拠のない話や、美辞麗句等真実を離れ飾り立てた言葉を用いている、そうした小説は挙げればきりが無いかも知れません。ここで要点は真実を離れている、と言う事、そしてその離れている真実とは仏説である、と言う事の二点です。    誹謗仏法な小説  綺語は十不善業の一つでそれ自体誹謗仏法なのですが、流言にしろ、綺語にしろ、先ず真実を離れているというのが問題です。そして、真実と目される言、も、如何なる真実と目される内容に依拠しているのか、が大きく問われます。心の真実を描く、と言う作法があるとしても、それが仏説に違っていれば真実から離れた言葉、と言わなければなりません。そして、意趣難解と言います、そうそう簡単ではない、とたしなめられるかも知れません。 論証     少説の内容と作為。  小説には通常、内容が有ります。どのようなジャンルの小説でも大概は内容が有るはずです。そしてその内容を執筆するに当たって、作者の作為が有るはずです。デカルトは”我思う故に我在り”と言ったそうですが、作為無くして作品は存在しない、と言って差し支えないでしょう。仮にこの説が気に入らなくて、自動筆記したところで、気に入らなかったので(煩悩)、自動筆記した(業)、と言う作為は残ります。煩悩業なので苦を得ることに成るでしょう。此の構造、煩悩業苦と言う仏法上の構造が支配している作品も数多いのではないかと危惧します。    作為の内容と仏説  さて、では、どのような作為でどのような内容ならば仏説に違わないのでしょう。同語反復のようですが仏説に基づく作為で作為の如く記された内容ならば仏説に違わないでしょう。では大きく言って如何にすれば仏説に違わないか、其れは恐らく成仏を得さしめようという作為によって記された小説ならば、仏説に違わないと考えられます。釈迦仏は弟子を成仏させるに当たって一代五十年の間に様々な経文を説いたと言います。作為は一つでもその内容、其の表記方法は幾つもあるのです。自分の読者が、自分の小説を読んで、成仏したいと思う。仏弟子に成りたいと思う。求道心が生まれるような小説。(最終的に)成仏を得るような小説を書く。此れが誹謗仏法でなく地獄におちずに済む執筆の心得です。 結論    <仏説に叶った小説は執筆可能>    仏説に叶った小説は執筆可能。以上のように可能であることがお分かりいただけるかと思います。結論していえば、仏説に違わない小説は唯仏弟子にのみ可能とも言えます。そんな、と思った方も多いかと思いますが、自らの信望することに言よせると、そんなものかと思っていただけると思います。抑々仏説に違わぬ、なのですから他宗派の人とは競争関係にあります。キリスト教やイスラム教、神道、等他の宗派が正しいと信じている人はその宗教に準じて書くのだろうと思います。しかし、それでは堕獄します。    後は心と腕次第  具体的方法論が無い、との誹りを避けるために、作法の一端を示すと、「Ebnter and Exit」,「メソッド」等(初出カクヨム)に記した通りの方法論で、小説を読始める(Enter)読み終える(Exit)の構造で、読み終えた読者が「仏弟子に成ろう」「成仏しよう」と言った求道心を持つように書くのが仏説に適うであろう私の執筆方法論です。  肝心なのは読み終えた時に仏法を肯定する「心境」になるか否かです。心境が「仏法を信じる」と言う心境になることを目標としない小説はいくら仏説を引用、援用しても無駄です。仏法的に駄作で、誹謗仏法の小説と言わねばなりません。  後はもう作者の信心と「腕」次第と言う事に成ります。  仏法を信じる小説家としてお互い「価値ある」小説を書きましょう。他宗の人とは競い合いですね。    地獄に堕ちる前に、信仰の寸心を改められたし。 記 西山貴文
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