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絹井先生が帰る前に会いに行かなければならない。
私たちは救命センターに急ぎ、何とか帰る前の絹井先生を捕まえることができた。
「全くもう……わたしは当直じゃないのよ?」
「申し訳ありません。でも、早く対応しないと……1000人の命に係わることなんです」
どうにかしなければ――そんな思いが口から出た。
「今、こうしている間にもこの建物が崩れてしまうかもしれません。今日、高校の体育館が崩れたように……何言ってるのか分からないかもしれないんですが、でも」
「友利君はちょっと黙りなさい」
絹井先生は厳しい顔で私を一瞥すると、「説明室、使わせてね」と救命センターの当直看護師に声をかけた。説明室は、すぐ隣の個室だ。手術にかかわる話を家族に説明するのに使う。
いつだったか、妻の症状をこの部屋で聞いたことがあった。
あの時の悲しみが胸をよぎったが、私はいつもと変わらずに手足を動かして椅子に座ることができた。
もし事故が起きれば、多くの人が死ぬ。
あの時、私が味わったのと同じ悲しみが、誰かの心を支配する。
陳腐な正義感だ。
我ながら青臭さに笑いが漏れそうになる。
だが、何かを成さなければ、ふとした瞬間に、喪失の奈落に飲み込まれそうになるのだ。
「コーヒーでも飲む?」
説明室にはほかの部屋にはない設備がある。
その一つがカフェコーナーだ。
と言っても、ウォーターサーバーとインスタントコーヒーやティーバッグがあるだけだが。
インスタントとはいえ、救命のトップがいれてくれたコーヒーを飲める機会はめったにない。
むしろ、下っ端の私がすべきことなのに、絹井先生は慣れた手つきでカップに湯を注ぐ。
「まずは落ち着いて。何をどう話すか考えて頂戴」
作業をしながらこちらを見る絹井先生の目は厳しさと同じだけの優しさを含んでいた。
ほどなく、ふんわりとコーヒーの香りが立ち上り、ミルクと砂糖の入った甘いインスタントのラテができた。
急がなければならないことだが、だからこそ順を追って話す必要がある。
頭に血が上って慌てていたことに気づいた。
「コーヒー、ありがとうございます」
「いいのよ。それで?」
耳を傾ける絹井先生に感謝しつつ、私は口を開いた。
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