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「帰ろう、楠元さん。バカな事は言わないで、ここは安珍さんの意志を尊重するんだ」
「でも…!」
「自分の存在が消えるんだぞ!」
激しく怒る奏多が、掴んだ手首を強く握りしめてくる。
彼の必死の思いが、伝わってくるようだった。
「とにかく、君がなんと言おうと、絶対に連れて帰る。それだけは譲れない…!」
彼の真剣で必死な眼差しに、不謹慎ながらも胸の内が熱くなる。
それでも、清咲は素直に頷けなかった。
彼の手を、振り払う選択しか出来なかった。
「楠元さん…!!」
清咲は真言を唱える事なく、奏多との間に光の障壁を生み出した。
奏多は酷く驚いたようだったが、自分はさほど驚かなかった。
キヨヒメに憑依してから、自分の体が人間では無くなってしまったのが、よく分かるからだった。
神の力を、自在に操れるようになっている。
怖くもあったが、それで良いのだと、清咲は思っていた。
「早松君、ごめん。それと、ありがとう」
薄い光の膜の向こうにいる奏多に向かって、頭を深く下げる。
「なんの得もないのに、面倒事ばっかりでええ事一つもなかったのに、こんな所までついて来てくれて…、私に付き合ってくれて、本当にありがとう。早松君がおったから、私、このはた迷惑なカップルのいざこざに振り回されても、頑張って来れたんやと思う」
「楠元さん…!」
奏多が三鈷杵で障壁を薙払おうとしたが、壁はビクともしなかった。
清咲はそっと光に手を触れると、奏多を真っ直ぐと見つめた。
「私な、思うんや。この迷惑な神様を助けるのが、私の運命やったんちゃうかな、って。この悪縁を断ち切る為に、生まれてきたんちゃうかなって」
奏多の手が、障壁を隔てた先で触れてくる。
「楠元さん、そんな風に考えるのはやめてくれ。頼むから俺と一緒に帰ろう!俺は君を__!」
必死に訴えて来る奏多に、清咲は明るく微笑んだ。
「ありがとう、早松君。私たぶん、早松君の事が、好きや。もちろん、男の子として」
少しだけ頬が赤くなったが、清咲は恥らわずに清々しく続けた。
「やからって事もないけど、早松君が嫌じゃなかったら、もう一度、私の事、見付けて欲しい。今の私が早松君の前から消えても、忘れてしまっても」
暗闇の欠片が、パラパラと絶え間なく降り注ぎ始める。
もう、時間はないようだった。
「私も早松君の事、絶対に探すから。どれだけ時間がかかっても、どれだけ遠回りしても、絶対に見付けるから…!やから、今は……っ」
零れそうになる涙を堪え、清咲は懸命に微笑んだ。
「やから、今は、さよならや…!」
障壁から離れ、安珍の元へ駆け出す。
自分の名を叫ぶ奏多の声が聞こえたが、それを振り切って走った。
その勢いのまま、清姫との憑依を解く。
「清咲ー!!!」
背後で、憑依を解かれて倒れたキヨヒメが叫んだ。
だが、清咲は振り返らなかった。
脇目も振らず一目散に、驚いて狼狽える安珍へ向かって突き進む。
(お願い、一つになって…!!)
そう願いながら、安珍の体を突き破るように彼の胸に飛び込んだ。
その瞬間、音もなく視界が真っ白になる。
肉体が消滅し、ただの魂の塊となったのが自分でもよく分かった。
徐々に、安珍の魂と結び付いて行く。
遠のきかけた意識だったが、不思議と途絶えることはなかった。
体は安珍であるのに、意志の主導権が自分に移り変わるのを感じていた。
でもそれは、ほんのわずかな時間であると、清咲は分かるのだった。
「清、咲…?」
狼狽した様子で、美しい姫が転ぶように駆け寄ってくる。
清咲は安珍の手で、よろよろと倒れ込む少女をすくい上げるように抱き止めた。
「キヨヒメ、私や。清咲や」
「清咲…!そなた、何を考えて…__」
口端を震わせて酷く動揺するキヨヒメに、清咲は優しく微笑んだ。
「キヨヒメ、もう、苦しまんでいいよ。いつまでも自分を責めたらあかん。全部受け止めて、一から新しく生まれ変わろう」
「生まれ、変わる…」
「今度こそ、安珍さんを信じて。清姫の迷いが、結果的に鬼神を呼んだんや。やから、約束して欲しい。今度こそ、安珍さんと生まれ変わるって」
澄んだ清流を思わせる美しい目から、ポロリと涙がつたう。
震える唇から、掠れた声が落ちていった。
「妾は、怖くて、記憶の奥底にしまい込んでいたのや。小高の事も、鬼神に取り憑かれて大蛇になってしまった事も…。今までずっと、恐ろしくて、人間の頃の記憶を消し去っていた」
キヨヒメはキュッと唇を噛む。
「だが、心はずっと囚われていたのやな。妾が逃げたせいで、安珍を危険な目に遭わせ、そして物の怪を眠らせてやれなかった。全ては、妾のせいであった」
清咲は、ゆっくりとかぶりを振った。
「違う。言ったやろ、もう自分を責めたらあかんって。自分を許さんと、いつまで経っても前に進まれへんよ」
「自分を、許す…」
「そうや、許すんや。自分で出来へんのやったら、私が許したる。あかんかったら私が責任とったる」
キヨヒメのポロポロと落ちる涙を、親指の腹で拭ってやる。
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