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◇ ◇ ◇
「大丈夫ですか?」
誰かに肩を揺すられ、ふと目を覚ますと、知らない女の人が、怖々と、それでも心配そうにこちらの顔を伺っていた。
ぼんやりする頭で体を起こし、辺りをキョロキョロと伺う。
どうしてだか、弟の通う小学校の廊下にいた。
「きみ、こんな所でなにをしているの?」
女性教論なのだろうか、タイトなスカートとカーディガンを身に付けた女性は、警戒心を露わにしながらそう尋ねて来た。
よからぬ疑いをかけられていると分かり、まだぼんやりとする頭で慌てて言い訳を探す。
「えっと、すみません。弟の忘れ物を取りに…」
咄嗟に出た言葉に、自分でも上手く答えられたと内心ホッとする。
それでも、彼女はまだ安心出来ないのか、表情を厳しくさせたまま、また質問を重ねてきた。
「弟さんの、お名前は?」
「早松です。……早松竜二」
それを聞いた途端、女性教論はホッとしたのか、ようやく愛想良く微笑んだ。
「ああ、竜二君のお兄さんなのね。私、六年生の担任なんです。それより本当に驚いたわ、こんな所で男の子が倒れてるんですもの」
「すみません…」
「どこか具合が悪くなったの?病院に連絡しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと気分が悪くなっただけですから。ただの貧血だと思うので」
「そう、それならいいんだけれど…」
女性教論は手を差し出すと、立ち上がるのを手伝ってくれた。
「ここ、もうすぐ閉めるから、用事が終わったら早く帰ってね。もう日が暮れるわ」
廊下の窓から外を見ると、太陽が沈みかけているのだろう、空に茜色の光を残し、周囲をセピア色に染めていた。
コツコツと廊下の先を歩いて行く女性教論に、慌てて呼びかける。
「あの、すみません」
「はい」
「俺の他に、誰かいませんでしたか?」
女性教論は不思議そうに目を丸くさせると、サラリと言った。
「いえ、誰もいませんでしたよ」
「そう、ですか」
「気を付けて帰ってね」
去って行く女性教論の背を見送りながら、微かに痛み始める頭を抱える。
どうしてだろう、自分の他に、誰かこの場所にいた気がしてならなかった。
そもそも、自分が何故この場所にいるのか、見当もつかない。
ただ分かるのは、自分は何か、大切な物を失ってしまったと言う虚無感だった。
(俺は、一体なにを、無くしたんだろう…)
暫く呆然と、その場に佇む。
不意に、誰かに呼ばれた気がして、振り返った。
奏多の目には、セピア色の静かな廊下が、寂しく映るだけだった。
◇ ◇ ◇
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