エピローグ

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◇ ◇ ◇ 毎週行われる写経会は、若くてイケメンの僧侶がいるおかげか、大勢のおば様達が押しかけ、いつも満席で行われていた。 それまで、開けたお寺であろうと自由参加だったが、お寺の中に参加者が収まりきらなくなったので、仕方なく人数制限を設けている。 昔から通っていた古株のおば様達からはさすがに文句が出たが、そこは一回の写経や茶話会の時間を長くする事で帳尻を合わせ、許して貰っていた。 「最近暑くなって来たわねぇ。もうそろそろ、扇風機を出した方がいいかもしれないわ」 「そうねぇ、今日はちょっと湿度が高かったように思うわ」 「こう言う日は、少し頭が重くなるわよね」 御本尊のある仏間から、少し離れた場所にある畳みの間で、座布団を円にして座るおば様達が口々にそう言った。 写経と法話を終え、おば様達の憩いの時間、茶話会が行われている。 「そうですねぇ、今日はとても蒸し暑い日です。でも、私にとっては清々しい日ですよ」 開け放たれた雨戸から見える、今にも降り出しそうな灰色の薄暗い空を眺め、和尚はのんびりと言った。 例の若くてイケメンの僧侶ではなく、すっかり隠居してしまった、今年で九十歳になるおじいちゃんだ。 久し振りに法衣に腕を通し、こうしてのんびり写経会を開いている。 「あらいやだ、こんな日が清々しいだなんて。妙見さんはまだしっかりしていると思っていましたよ」 身なりは上品でいつも小綺麗にしている、歯に衣着せぬ物言いをする古株のご婦人が、そう言って和尚の肩を軽く叩いた。 周りのご婦人方も、遠慮がちに笑う。 和尚は深いしわを一層深めて穏やかに微笑み、ズズッと禄茶をすすった。 「それより、今日はとても驚きましたよ。まさか住職も俊慶(しゅんけい)さんも急用だなんて」 「まぁ、確かな日にちが分かるものでもありませんからねぇ」 和尚ののんびりとした、それでいて噛み合わない返答に、ご婦人方はあからさまに怪訝な顔はせず、あっさりと受け流した。 九十歳になる老人の発言を、まともに受け取って突っ込むのは野暮だと思っているのだ。 「でも、妙見さんの法話、本当に久し振りに聞きましたけれど、命が巡る話、私とても感動しましたわ」 妙見は返事の代わりに、お茶うけの饅頭を頬張って、嬉しそうに笑った。 そんな可愛らしい老人の僧侶に、みな温かな視線を向ける。 「妙見さんも嬉しいでしょう、息子さんが継いでくれて、その息子さんまでお寺に入ってくれて。安泰で、私達も嬉しく思います」 ご婦人の一人が、そう言って表情を綻ばせた。 だが、その話題を待ってましたと言わんばかりに、小綺麗な婦人が声を上げてかっさらっていく。 「継ぐと言えば、俊慶さんはどうなんです?もう結婚するにはいい年頃ですし、縁談の一つでもあるんじゃなくて?」 俊慶とは、最近寺に入った若くて美男子の僧侶だ。 写経会を大盛況にさせている張本人でもある。 寺に入りたての頃は頭を丸めていたが、今は髪も伸び、法衣を脱げばやけに美しい好青年で、一見僧侶だとは分からなくなる。 そんな彼をひと目見ようと訪れる若い参拝者もいるほどだ。 「あの子に縁談など必要ありませんよ」 妙見のあっさりとした返事に、婦人は「まぁ」と声を高らかに上げた。 「のんびりしていてはダメですよ。俊慶さんもおモテになるから、妙な女の子をお嫁にしてしまう可能性だってありますわ。そうなれば私達もがっかりですもの。ここは、由緒ある家柄の娘さんを紹介してもらうべきです。私、いくつかアテがあるんですけれど、良ければご紹介しましょうか」 言い募るご婦人に、妙見は暫く微笑んだまま黙ると、穏やかな風のように話し始めた。 「今日の法話は、いのちのお話をさせて頂きました。受け継がれるいのちの大切さを」 「ええ、それはもう、とても素晴らしいお話でしたわ」 「俊慶には、いのちを受け継ぐ存在ができたのですよ」 その場にいたご婦人方、全員が、はて、と目を丸くさせる。 妙見は、ほほほほ、と心底嬉しそうに笑うと、これまた愉快そうに言った。 「本日、お子が産まれたのです。それはそれは、可愛らしい女の子だそうですよ」 泡を食ってしまった一同に、暫くの沈黙が流れる。 素っ頓狂な声を上げて口火を切ったのは、小綺麗な婦人だった。 「俊慶さん、ご結婚していらっしゃいましたの!?でも、それらしい方は一度も見たことがありませんでしたけれど…」 「妊娠を機に、俊慶だけこちらに来ていたんですよ。お嫁さんは紀州の実家に里帰りしています」 衝撃の事実に、悲鳴のような叫びが上がる。 「じゃあ、住職も俊慶さんも、そちらの方へ…!?」 「ええ、それはもう、飛び出して行きましたよ。普段冷静で落ち着いている俊慶ですが、服を着替えるのも忘れて法衣のまま電車に飛び乗ったそうで」 えー!と再び絶叫する婦人方に、妙見はまた、ほほほほほ、と笑う。 不意に、騒ぎ立てる婦人の間を縫って、孫の一人が顔を出した。 「じいちゃん、兄貴から写真届いた」 「おお、竜二。どれどれ、見せておくれ」 孫に手渡された携帯電話を宝物のように受け取った妙見は、画面に映し出された写真を見て、今日一番、しわを深めて笑った。 「なんと、素晴らしい写真だ」 そこには、赤ん坊を恐々と抱く青年と、彼に寄り添うように立ち、ニッコリと微笑む女性が写っていた。 女性は昔、この寺に下宿に来ていた頃があり、人の良い、素直で明るい女の子だった。 朴念仁の長男が惚れに惚れた相手だ。 そんな彼女も、今ではすっかりお母さんの顔になっている。 「こうして、いのちが巡っていくのだなぁ」 妙見は、じっくりと写真を眺めた後、もう一度、雨模様の空を見上げた。 「今日はとても、清々しい日だ」 恋するキヨヒメ 完
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