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温泉街でよく怪談や非現実的なミステリー話が囁かれるのは、目をこすった合間に白く立ち上るけむりが、その人に何かを見せているからだ。高揚した気分と共に、帰路につけば途端それはいい土産話となる。
街中に蔓延するこの温かく情緒をかき乱す気配は、人々をこの地に歓迎するために、ひねもすのたり人体の内に入り込む。
すると旅客の皆さまは、僕たちが見えるようになる。
我々の正体は、熱海温泉街の湯けむりが見せる幻影だ。
大体はアルバイター世代の若者の姿をしていて、市内各地区にそれぞれ存在する。僕は東海岸町、変人の彼は海光町の泉都幻象である。
幻影たる存在である我々に、本来どう考えても、労働の義務などないはずなのだが……。
しかし温泉街で潮風に吹かれながらひんやり楽しく暮らしていくには、まあやはり先立つものが必要なわけで、その唯一の働き口がこの組合なのだからそれはもう入らないわけにはいかないでしょう。
実態のない者たちを取りまとめる実態のない団体、それが潮騒協同組合の実態だ。
海光町の言った「女に姿を変えて接客」というのは、そういうワケで嘘ではない。
「しっかし、プライベートでまで女の恰好になるなんて、本当に変わった奴だなあ」
僕が呆れてそう言うと、海光町は意味ありげに口元に手を当てた。彼がこうしてにやけている時は、だいたい変人ならではの独自の思考回路に悦っている時だ。
「俺は、少しでも休みを有効に使いたいからね」
「どういう意味?」
「労働は労働であって、生きる意味じゃない。なんていうか、できれば働きたくない! 東海岸町、君はどうだい、あのバイト好きかい?」
「大っ嫌いだよ、誰に向かって言ってんだ」
半ば食い気味に僕はテーブルに身を乗り出した。これはカップルのケンカではないため、見ていた所で面白くはないのですよと周知したい。視線はやがて、それぞれの方向に反れた。
「その質問を僕にするか? 海光町」
僕は窓の外の就業先方面を睨み付けた。
晴天の季節は清々しく、道路の小石まで反射させて輝いている。そう、ここは東海岸町。熱海のすべての夏と光が集まる海辺だ。
潮騒はガラスをすり抜けて、ソーダ水の氷をクラクラ揺らす。
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