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#1 追想の夏
天気予報によれば、今年もどうやら猛暑らしい。夏は暑いものと相場は決まっているが、近年では、その暑さの質が変わってきているのだそうだ。
八月の日本。この国では八月といえば真夏だ。抜けるような青空に、照り付ける強い日差し、聞くほどにうんざりするほど暑くなるセミの大合唱、そして歓声を上げて駆けていく小麦色に日焼けした子供たち。夏は生命が眩しく輝く季節だ。
あれから六十五年経った今でも、夏は変わらずにやってくるが、さすがに八十四の老いぼれに、近年の暑さは身に堪える。
私は縁側に立ち、晴れ渡った空を見上げた。
生活保護の申請はまたも却下された。
持病を抱える私にとって、生活保護は最後の手段だ。売れるものは売ったし、食べるものを切り詰めても、持ち家があるという理由で、私の申請は通らない。
急に腹の虫が鳴り、指先が震えてくる。
もう五日、水しか口にしていない。何か食べたいと思っても、米びつに米はないし、冷蔵庫の中にも食べ物はない。まあ電気を止められてしまっているから、冷蔵庫など何の役にも立たないが。
この家を売れば、申請が下りるかもしれないなどと市の職員は話していたが、この家だけは何があっても売るわけにはいかなかった。
この家は、約束の場所。
彼との約束を果たすために、この場所はどうしても必要なのだ。
そして、あの時代に思いを馳せる。
何もかもがおかしかった、あの奇妙な時代。
だが私にとって、もっとも鮮烈な出来事があったあの時代。
暑さと空腹でめまいを覚え、足がふらつく。
頭をふと過ぎるのは、老人の孤独死という言葉。そう言えば、以前も私はこうして死にかけたなと、若かった自分を思い出す。
私は柱に背を預け、手首に絡めた銀のロザリオを両手で握り締め、空を見上げた。
あの日と同じような美しい夏空。しかし、見つめるほどに悲しくなる空。
愛しいあの人がくれた、本物の愛の重さを、私はあの時に知った。
儚いそれに形はないのに、それは今でも心を震わせる。
常に手首にかけている、歳月重ねて輝きがくすんだロザリオも、あの人がいた物語を知っている。
それは平和な時代が訪れても、どうしても消えない記憶。
絶対に消えない、深愛の徴……。
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