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魯浦(ろほう)の夜は、いくつもの表情を見せる。この国が墨の濃淡だけで風景を描き切る淡白な芸術を生み出したのは、極彩色の景勝地に囲まれた土地柄からなのかもしれない。そこへ、近代のだんだら模様の看板、目新しいネオンサインときた。絵のような山々に陽の光が燦燦と降り注いでまたいくつもの色を立ち昇らせる。その美しさには戸惑いすら覚えるほどだ。
しかし、今や夜の美しさは失われようとしていた。
この地をかつて支配し、革命後支配者の座を追われた辣家軍が突如として盧浦の包囲に出動し帝国の軍勢と睨み合っている状況下にあって、店は電飾を落とし、街灯も軍の指示した時間に一斉に消え失せる。街が死んだ。
戒厳令の敷かれた通りを、一台の自動車が秘めやかに転がってゆく。フロントライトはわずかな隙間を残してガラスを黒く塗りつぶされており、優雅な顔立ちを台無しにされている。そんな走行にあっても、発動機は近代技術の結実、より速く、より遠くへの夢の結実を謳う。車体の躍動に合わせて、わずかな光が局面で仕上げられた表面に現れては後方へと流れ消えていった。
戦闘が始まる前、おそらくは西邦から輸入されたであろうその自動車、信号も警察官もいない交差点を用心深く曲がると、やがて石造りの大きなビルヂングの前で速度を落とした。明かりがついていれば、正面玄関に掲げられた「グランド・ホテル」の金文字が迎えたことだろう。
石畳を照らし出す照明や迎え入れるドアマンの豪奢な衣装は、降り立つ者に「お前は金持ちなのだ」と囁きかけたことだろう。しかし、今自動車を待ち受けているのは鉄帽を目深にかぶり、背嚢を背負い鈍く光る銃剣をつけた小銃を構えた兵隊の眼光だった。
「停まれ、誰か」
兵隊の一人が銃に添えていた片手を上げ、慣れたハンドルさばきでロータリーへ入ってきた自動車の真正面に立ちふさがった。僅かな月明かりの下で白い手袋がぼんやりと動く。
自動車は行く手を塞ぐ兵隊に不満げなブレーキの音をきしませると、運転席にキラリと乗員の存在を浮かび上がらせた。
反射したのは、眼鏡。
「独立歩兵第四大隊第一中隊辰春軍曹です。湊大尉殿のお迎えに上がりました」
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